★メディアの自粛

2015年3月 6日 (金)

「日本のメディアの萎縮あるいは自粛と呼ばれるものは、政権からのプレッシャーだけでなくこういうネットユーザーからの極めて犯罪的なプレッシャーも関わっているものと考えています」

「自粛」についての続き。

昨日(3月5日)のブログでは、メディア側の自粛について考えた。メディアが「面倒なこと」を避けたがるため、踏み込んだ「批判」をしなくなっているということだった。

メディアの中に「面倒なこと」を避けたがっている風潮がある背景には、最近、メディアを取り巻く「面倒なこと」が半端のないレベルになっている側面もある。

作家の中沢けいさんの指摘。外国特派員協会での記者会見(2月25日)より。

"ネット右翼"とか、自民党のサポーターを自称する"ネットサポ"と呼ばれる人たちが情報を取ろうとするひとたちの邪魔をしたり、場合によっては勤務先に大量のFAXや電話したりして業務の妨害を行っています。日本のメディアの萎縮あるいは自粛と呼ばれるものは、政権からのプレッシャーだけでなくこういうネットユーザーからの極めて犯罪的なプレッシャーも関わっているものと考えています」

「ネットの中に広がっている現状に対する危機感について、ネットを使わない人たちにも気づいていただきたいと願っている」


経済産業官僚の古賀茂明さんもする。そうした「ネットサポ」の人たちの暗躍を、自民党が後押ししているという。雑誌『SIGHT』(最新61号)より。

「自民党は、ネットサポーターズクラブというのを作ったんですよ。J-NSCというんですけど」

そこには『安倍さん大好き!』みたいな人が集まってくるわけじゃないですか。で、その人たちが喜ぶような情報を流してあげるとか、その人たちに『自民党の宣伝をするんですよ』っていう役割を与えるんですね。そうすると、その人たちの中で、ツイッターとかフェイスブックで相互にフォローし合う世界が、公式の自民党のSNSの外にできるんです」


「たとえば、僕が『報道ステーション』でこんなバカなことを言っている、とかいう情報が流れるわけですよ。そうするとその非公式ネットワークがバーッと動き出して、一斉に批判や誹謗中傷をテレビ朝日にメールで送るんです」 (P30)

実際、こうして送られてくる誹謗のメールは程度を超えている。例えば、朝日新聞の従軍慰安婦報道で批判を受けた元記者の植村隆さん。本人だけでなく、子供までもがターゲットとなった。『抵抗の拠点から』(著・青木理)より。

「これは本当に辛かった。最初は少ししかなかったのに、どんどん増えていって。『売国奴のガキ』とか『自殺するまで追い込むしかない』なんて書いているのもあってね。ひどいよ。本当にこれはひどいよなぁ…」

メディア側が「面倒なこと」をとにかく避けたがる背景には、こうした動きもあるのも確かだと思う。

 だからといって、メディアが「権力批判」という本望を回避してもいいという理由にはならないのだけど。

コラムニストの小田嶋隆さんは、次のように言う。『日経ビジネスオンライン』の「小田嶋隆ア・ピース・オブ・警告」(2014年10月3日)より。

「言論を弾圧するのは、必ずしも悪の意図を持った、権力の手先ではない」

「戦前戦後を問わず、言論への暴力は、権力や警察が、直接に言論人の自由を拘束する形で発動されるばかりのものではない。むしろ、実数としては『世論』に後押しされたキャンペーンや、『苦情』や『問い合わせ』を偽装したいやがらせが、現場を萎縮させて行くケースの方が多いはずだ」


きっと自民党のサポーターズクラブの人たちも「悪の意図」は持っていないのかもしれない。だが、結果として「権力の手先」となっている。

僕としては、その「J-NSC」というネーミングに背筋が寒くなるものがある。もともと「NSC」とは、アメリカ国家安全保障会議のこと。情報をスノーデン氏の『暴露』を読む限り、アメリカのNSCは巨大な権力を手に入れ、情報をもとに社会を思い通りにコントロールしようとしている。


日本版NSCと呼ばれる組織がどこまで力を持っているのかは知らないが、「J-NSC」という民間の組織がそれなりの力を持っていることが気味悪い。戦前の「隣組」を想起するし、まるで政権の「憲兵」役を担っているようである。

そして、それを支えるように「特定秘密保護法」などがどんどん整備されていく。

作家の辺見庸さん著書『明日なき今日』より。

「ファシズムっていうのは必ずしも強権的に『上から』だけでくるものではなくて、動態としてはマスメディアに煽られて下からもわき上ってくる。政治権力とメディア、人心が相乗して、居丈高になっていく。個人、弱者、少数者、異議申し立て者を押しのけて、『国家』や『ニッポン』という幻想がとめどなく膨張してゆく」 (P89)

高知新聞の高田昌幸さんの言葉。東京新聞(3月1日)より。

いま高知新聞の若い記者に敗戦70年で戦前の話の聞き取りをしてもらっています。一番つらかったことは?と聞くと、答えは周囲の目です。隣近所、学校の友達に白い目でみられること」

70年が経ち、今の時代の「周囲の目」には、ネットという面倒なものが含まれる。川崎や淡路島の事件しかり。「白い目」や「悪意の言葉」が容赦なく、次々と飛んでくる。

 

 

 

2015年3月 5日 (木)

「我々が面倒くさがって、スルーしていると、結果として言論弾圧が成功していることになる」

今回もメディアの「自粛」について。

なぜ今のメディアは、過剰ともいえる「自粛」に走るのか。その背景を探る言葉を並べたい。

元経済産業官僚の古賀茂明さんの指摘。雑誌『SIGHT』(最新61号)より。

「特にテレビ局なんていうのは、毎日時間に追われて番組をつくっているわけですよね」

「ところが反安倍的なことをやろうとすると、大変なわけですよ。上からいろいろ言われたり、官邸から圧力がかかったり。そうするとそれに対応しなきゃいけない」

「みんなそれでイヤになっちゃうわけです。信念を貫くことが、日々の仕事をやっていく上でものすごく足かせになるから」


「だから、上で文句を言われる前に、自分でセーブしちゃうことが、確実に起きていますね」 (P27)

こちらも古賀茂明さんの言葉。外国特派員協会での記者会見(2月25日)より。

「番組を作るひとたちは面倒くさくなってくる。番組制作という時間との競争の中で、政治部や経済部から指示や圧力がかかってくると、ものすごくロスになるので、最初からクレームがこないよう作るのが作業をスムースに進めるコツだというようなことになる」

この古賀さんの指摘は、よくわかる。僕もメディアの中で働いていて何度も経験した。

とにかく今のメディアはコンプライアンスの導入・徹底で、とにかく社内の手続きやヤリトリが煩雑になっている。その結果、余計なことをすることは、手間がやたらかかるようになった。必要以上のことをしないのが一番、自分の仕事をやりやすい、という風潮が出来上がっている。また余計なことをしない人が、偉くなっていく。そして、「効率の良い」人間ばかりになる。

改めてコラムニストの小田嶋隆さんの言葉。TBSラジオ『たまむすび』(8月18日放送)より。

「実は言論弾圧と呼ばれていることは、何かを行った人間が警察に引っ張られていくとか、業界から干されるとかいう大げさなことではない。ちょっとある特定の話題に触れると、あとあとなんとなく面倒くさい、ちょっとうっとうしいとか、そういうビミョーなところで起きている。我々が面倒くさがって、スルーしていると、結果として言論弾圧が成功していることになる」

音楽業界でも…。Kダブシャインさんの指摘。『ニュースをネットで読むと「バカ」になる』(著・上杉隆)より。

「たいしてわかってもないくせに、どっかで聞いたことを『これ危険だからやめておこうよ』とできるだけ回避しようとするレコード会社に問題がある。自由の概念が多分違うんでしょうね。これが火種になるんだったらやめておこうというように」 (P74)

でも、結局は「面倒くさい」ことにこそ、大切なことがある。ということを、メディアやジャーナリズムに携わる者は、心に刻んでおくべきなのでは。

アニメ監督の宮崎駿さんが、映画作りについて語ったコメント。NHK『プロフェッショナル』(2013年11月13日)より。

「面倒くさいっていう自分の気持ちとの戦いなんだよ。何が面倒くさいって究極に面倒くさいよね。『面倒くさかったらやめれば?』『うるせえな』ってことになる。世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ。面倒くさくないとこで生きていると面倒くさいのはうらやましいなと思うんです」

エッセイストの阿川佐和子さんTFN『学問のススメ』(2014年9月9日放送)より。

「叱るのって難しい。だから皆、面倒くさくなってやめちゃっているんだと思う」

この「叱る」というフレーズを、「政権批判」と言い換えると分かりやすい。

そして阿川さんは、次のように言う。

「『面倒くさいことって楽しいことだよ』って誰かが言った。『絶対、やだ』と思ったけど。でも、何でも便利だと心に残らない。面倒なことが起こるから、印象に残って記憶に残る」

これは、文化人類学者の今福龍太さんの次の指摘とも重なる。共著『何のために「学ぶ」のか』より。

「わかりやすことには逆に気をつける。わかりにくいことのほうがはるかにおもしろい。こうした感じ方を、ぜひ大切にしてほしい」 (P83)

そして、大切なのは、面倒くさいことを積極的にやる人を大切にする、ということ。

内田樹さんの言葉。著書『内田樹の大市民講座』より。

「どんな組織でも現場のモラルを高めるのはそういう『ちょっと余計な仕事を厭わない』人である」 (P23)

面倒くさいことこそ、大切にする。面倒くさいことを厭わない人を組織として大切にする。

そこから始めないと、メディアの「自粛」の流れは止められないのかもしれない。



2015年1月9日のブログ

2014年7月4日のブログ

 


2015年3月 4日 (水)

「日本のメディアの報道ぶりは最悪だと思います。事件を受けての政府の対応を追及もしなければ、批判もしない。安倍首相の子どもにでもなったつもりでしょうか」

前々回(3月2日)で触れた「自粛」について。いくつか目についた言葉があったので、新たに追加分を並べたい。

ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラーさんは、人質事件でのメディアについて次のように指摘する。神奈川新聞(3月3日)より。

「日本のメディアの報道ぶりは最悪だと思います。事件を受けての政府の対応を追及もしなければ、批判もしない。安倍首相の子どもにでもなったつもりでしょうか」

「国民が選択しようにも、メディアが沈黙していては選択肢は見えてきません」


そうなのである。メディアが取り上げないと、一般の人たちには「次の選択肢」が見えてこない。

ジャーナリストの神保哲生さんの指摘を思い出す。ビデオニュース・ドットコム「ニュース・コメンティタリー」(2014年12月6日配信)より。(12月13日のブログ

「メディアが権力に介入されて押しつぶされてしまうと、我々は押しつぶされているということすら分からなくなる」 (1分すぎ)

そして山崎雅弘さん自身のツイッター(3月4日)より。

「情けないのは、首相周辺の恫喝に屈服している大手紙や在京大手テレビ局が、自分たちの『言論の自由』のために国会で戦ってくれている野党議員の正論を、きちんと掘り下げて読者や視聴者に解説せず、ただの見物人のように『傍で傍観』していること。『言論の自由』は、もうどうでもよくなっているのか?」

確かに、そう思う。

さらにこう続ける。自身のツイッター(3月4日)より。

「大手メディアの中には『今はまだ我慢。もう少し状況が悪化したら、その時は本気出す』などと、自分を騙している人もいるかもしれないが、古今東西の歴史が示すように、いったん強権体制が盤石な構造で完成してしまったら、一切の批判は不可能になる。先送りすればするほど、権力への批判は難しくなる」

一方、テレビのコメンテーターなどが自粛している様子について、劇作家の平田オリザさんは次のように指摘する。文化放送『ゴールデンラジオ』(2月27日放送)より。

「そういう生活の場みたいな所から少しずつ少しずつ真綿で首を絞めるように…。僕みたいに他に商売を持っている人間はいいんですけど、コメンテーターの方でそれがメインの収入の人たちだと、家族もいてローンもあってと。本当に経済で巧妙に首を絞められるんです。巧妙に。戦前を見ても、そう」

それこそ、権力からの圧力に対して、もっと強い動きがあってしかるべきだと思う。今井一さんの指摘。外国特派員協会での記者会見(2月25日)より。

「私たちやテレビのコメンテーターが、それこそストライキの精神で"俺もこのテレビに出ない、私も出ない"と。クビになるからって口をつぐむんじゃなくて、誰かが降ろされたら、全部が降りるという、日本のジャーナリストたちがそういう行動を取らないと、この悪しき流れにストップをかけることはできないと思う」

コメンテーターが「生活が大事」と考えるように、メディア企業そのものも「経営が大事」という考えなのかもしれない。

ジャーナリストの青木理さんは、著書『僕たちの時代』で、「新聞」というものについて、次のように語っている。

「もちろん新聞だって商売であって、僕たちは書いたものを売って飯の種にしていることは間違いないんだけれども、この稼業には別の意味もある。経済論理に抗してでも、損を甘受してでも、絶対に守らなきゃいけない一線がある」 (P25)

ぜひメディアの方々は、映画『グッドナイト&グッドラック』を観なおしてほしい。(3月3日のブログ

歴史は繰り返す。はず、である。アメリカ社会がマッカーシズムを葬り去った歴史も、ぜひ今の日本でも繰り返して欲しい。




2015年3月 3日 (火)

「もしテレビが娯楽と逃避のためだけの道具なら、もともと何の価値のないということですから」

改めて、ジョージ・クルーニー製作映画『グッドナイト&グッドラック』を観た。

「赤狩り」が吹き荒れた1950年代のアメリカで、マッカーシズムと対峙したアンカーマン、エドワード・マローが主人公の映画である。

マッカーシーに対して、エド・マローは、自身の番組『SEE IT NOW』で次のように反論する。映画『グッドナイト&グッドラック』より。

「彼は私を名指しして、共産主義者の仲間として批判しました。短絡的な主張です。彼を批判するものはすべて共産主義者とみなされる。となると我が国は共産主義者だらけです」

 ここでの「共産主義者」というフレーズを、「テロリスト」と入れ替えれば、昨今の政権批判する者に対しての言い方とまったく同じとなる。この発言は、1954年のもの(ちなみに、安倍総理の生まれた年)。60年経って、歴史は繰り返す。

内田樹さんは、最近の日本社会の風潮について次のように語っている。ラジオデイズ『はなし半分』(2月27日配信)より。

「マッカーシズムというのがあった。あの時代とちょっと似ている。ジョセフ・マッカーシーってただの嘘つきなんだけど、その人が4年から5年かけて、アメリカの政界を牛耳っていた。どうしてこんな人物がという人が…」 (54分ごろ)

当時のアメリカについて、内田さんは、次のようにも指摘。

「ただアメリカには復元力がある。国内に常に反政府的、反権力的なメディアが生きている。カルチャーがある」 (57分ごろ)

アメリカ社会には、マッカーシズムを乗り切る復元力があるという。かたや今の日本には…。

韓国・慶北大教授の金泳鎬さんの言葉。著書『憲法九条は私たちの安全保障です。』より。

「どこの国にもヘイトスピーチはあるが、健全な市民社会の自浄力で自浄していくので、日本もそのようになると思われる。我々は市民社会の自浄力を信じたい」 (P9)

ただ、「市民社会の自浄力」を涵養するためには、メディアの力が必要となる。「自粛」などしている場合ではない。

エドワード・マローが1958年10月に行った記者会見での言葉を。映画『グッドナイト&グッドラック』より。

「ラジオとテレビの現状を率直に語りたいと思います」

「歴史は自分の手で築くもの。もし50年後100年後の歴史家が今のテレビ番組を1週間分見たとする。彼らの目に映るのはおそらく今の世にはこびる退廃と現実逃避と隔絶でしょう」

「我々はテレビの現状を見極めるべきです。テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠している。それに気づかなければ、スポンサーも視聴者も制作者も後悔することになる」

「『歴史は自分の手で築くもの』と言いましたが、今のままでは歴史から手痛い報復を受けるでしょう」

「もしテレビが娯楽と逃避のためだけの道具なら、もともと何の価値のないということですから。テレビは人を教育し、啓発し、心を動かします。だが、それはあくまでも使う者の自覚次第です。それがなければ、テレビはメカの詰まったただの箱なのです。グッドナイト&グッドラック」


今の日本社会に、エドワード・マロー、およびその番組スタッフのような骨のある人たちは出てきてくれるのだろうか。

もっと言えば、この『グッドナイト&グッドラック』(2005年公開)のような志のある上質な映画が日本でも生まれてくるのだろうか。

そんなことも思わず考えてしまう。


2015年3月 2日 (月)

「僕も常に自粛しています。日本では、自粛せざるを得ない。日本社会は皆、自粛してしまっている」

前々回のブログ(2月20日)から、3回にわたって、政治家の言葉の問題についての言葉を並べた。

それと裏表のセットのように顕著になっているのがメディア側の自粛の問題である。

年始、
爆笑問題の太田光さんが、NHKに政治ネタを却下されたときのコメントを改めて。TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』(1月7日放送)より。(1月8日のブログ

「自粛なんですよ。これは誤解しないでもらいたいんですけど、政治的圧力は一切かかっていない。はっきり言って。テレビ局側の自粛っていうのはありますけど。それは問題を避けるためのコンプライアンス」

今回は、こうしたメディアの「自粛」についての言葉をズラリと並べてみたい。

宮崎駿さんTBSラジオ『デイキャッチ』(2月16日放送)より。

「愚かな奴は自粛するだろうし、自粛する程度のことしか考えずに発言していたんだなと思う」

ピーター・バラカンさんTBSラジオ『デイキャッチ』(2月20日放送)より。

「僕も常に自粛しています。日本では、自粛せざるを得ない。日本社会は皆、自粛してしまっている。タブーの話があまりにもたくさんある。もう自粛するしかない。こういう仕事をしたければ」

ピーター・バラカンさんは、次のようにも語っている。ビデオニュース・ドットコム『映画が描くテロとの戦い』(1月31日配信)より。

「日本はタブーが多すぎる。テレビのニュースでも、よほどのことがないと政府の批判はしない。大手のメディアがしないと、普通の視聴者には『ない』ものとなってしまう。知らないと問題意識も出てこない。問題意識がないと、次の選挙で誰に入れるとか政策の話もしない」 (パート②26分ごろ)

社会学者の宮台真司さんTBSラジオ『デイキャッチ』(2月20日放送)より。

「品性と自粛は違う。自由と民主主義を基本とする主権国家は、品性と知性がベース」

「ミュージシャンや表現者が脅しにあった時、世論がどちら側につくと予想できるか、という問題が大きい。暴力や脅しに屈する、屈しないという単純な問題ではない」

「誰もが自粛をしていると『自粛していないといけないのか』という雰囲気になる。そういう意味では「それやってもいいんだよな」と特に年少の人たちが思えるようになることが大事」

「法律によって禁止されているからではなく、お互いが相互牽制しあうことによって発言しなくなる。その結果、法律ができてしまう。こうした流れが始まっている可能性がある」


この宮台さんの最後のコメントは、作家の森達也さんの次の指摘と重なる。著書『誰がこの国を壊すのか』より。

「とくに日本人はその傾向が強くて、勝手にいろんな標識を立ててしまうわけです。そして自分たちで立てたにもかかわらず、それが何か一般意思のようなものが立てたと思い込んでしまう。自律を他律とすり替えてしまうわけです。つまり共同幻想です」

こうやって「自粛」は生まれる。テレビの世界で「放送禁止歌」が生まれたように。

作家の辺見庸さん著書『明日なき今日』より。

「僕は『自己内思想警察』とよく言うんですけどね。自分の中に飼っている思想警察みたいなものが、一生懸命に自分を規制する。これがいま、メディアに蔓延している大変な病気だと思うんです」 (P94)

大川興業の大川豊さんは、選挙のときのメディアについて。東京新聞(2月21日)より。

 「昨年末の衆院選で、自民党がテレビ局に『公平中立な報道』を要望したでしょ。あんな介入こそ、絶対ネタにして笑わせなきゃいけない」

その通りだと思う。自粛している場合じゃない。

再び、森達也さん。同じく東京新聞(2月21日)より。


「ここにあるのはリスクを避けたい組織の論理だけ。それに個の論理が負けてしまうのが、まさに日本です」

「規制を作ったのは自分たち。でも、それを忘れてしまう。そして自由がないなどとため息をついている。自由が怖いんです。自ら規制を求めてしまう。なぜなら集団の中にいるからです」

「今こそ、集団から外れることが大事です。特にメディアに関わる者、表現者は」

結局、個人の考えより、組織・システムの論理が優先されると、自粛や忖度というものは過剰になっていく、そんな気がする。


2015年2月20日 (金)

「国会や他の場所における与党議員の言動は、この二年で急速に粗暴かつ恫喝的になっているが、大手メディアの社員はこれが『自分が本来やるべき仕事をやめた結果』であることを自覚しているだろうか」

安倍総理のヤジが問題になっている。

大島理森予算委員長も「ヤジ同士のやりとりはしないように。総理もちょっと…」「いやいや総理……ちょっと静かに」「総理総理ちょっと」と何度も注意する有様。

これに関しては、朝、森本毅郎さん「総理なんだから、もっと落ち着かなきゃ」TBSラジオ『スタンバイ』)と言っていたが、本当にその通りだと思う。

自民党の山田賢司議員が共産党の志位委員長に放った「さすがテロ政党!」というヤジといい、最近は、政治家に「言葉」を悪質なおもちゃにしているような言動ばかりが目立つ。

一方で、政権に対しての批判的な言葉を口にできない雰囲気は依然として強い。

戦史研究家の山崎雅弘さんの指摘。自身のツイッター(2月19日)より。

「政権に批判的な相手を『テロ』や『テロリストの同調者』と誹謗する風潮が、国会でも『当たり前』になりつつある。政府を批判する者を名指しして『何々を政権批判に利用している』との論点すり替えの詭弁で、批判封じの言説を展開するネット記事も増えた。国民が政府方針に疑問を呈することを抑圧する」

作家の高橋源一郎さん文化放送『ゴールデンラジオ』(2月18日放送)より。

「イスラム国の話も今は話しにくい状態。今、怖いのは、例えば政府に文句を言うと『テロリストを利する』という言葉が…。何言っても、テロリスロトを利する、みたいになってくると、それに反対する人はいない。『テロリストは悪い、絶対悪だから』ということをみんなが言わなきゃなくなっているけど、それもちょっとヘンな話」

作家の森達也さん朝日新聞(2月11日)より。

「違う視点を提示すれば、『イスラム国』を擁護するのか、などとたたかれるでしょう。誰も擁護などしていない。でもそうした圧力に屈して自粛してしまう。それはまさしく、かつての大日本帝国の姿であり、9・11後に集団化が加速した米国の論理です」

「今回の件では、政権は判断を間違えたと僕は思います。でも批判や追及が弱い。集団化が加速しているから、多数派と違う視点を出したら、社会の異物としてたたかれる」


それは「シャルリ・エブド」襲撃事件のあとのフランスも同じ。その空気を、フランスの人類学者のエマニュエル・トッド氏は、次のように語る。朝日新聞(2月19日)より。

「今日の社会で表現の自由を妨げるのは、昔ながらの検閲ではありません。今風のやり方は、山ほどの言説によって真実や反対意見、隅っこで語られていることを押しつぶし、世論の主導権を握ることです」

ヤジやネットでの中傷も当然ながら、その「山ほどの言説」に入ってくる。

だからこそ、メディアの役割が重要になってくる。本当は。

改めて森達也さんのメディアに対する言葉。朝日新聞(2月11日)より。

「多数派とは異なる視点を提示すること。それはメディアの重要な役割です」

「メディアも営利企業です。市場原理にあらがうことは難しい。でも今は、あえて火中の栗を拾ってください。たたかれてください。罵倒されながら声をあげてください。朝日だけじゃない。全メディアに言いたい。集団化と暴走を押しとどめる可能性を持つのはメディアです。それを放棄したら、かつてアジア太平洋戦争に進んだ時の状況を繰り返すことになる」


最後に。
さらに山崎雅弘さんの言葉をもうひとつ。自身のツイッタ-(2月19日)より。

「国会や他の場所における与党議員の言動は、この二年で急速に粗暴かつ恫喝的になっているが、大手メディアの社員はこれが『自分が本来やるべき仕事をやめた結果』であることを自覚しているだろうか。日本人だけでなく世界中どこの国でも、メディアが権力監視という仕事を放棄すれば、こんな状態になる」

総理と国会議員の言葉の低下。それはメディアの責任でもある。

2015年2月11日 (水)

「少しでも気分を害するような映像にはめったやたらにモザイクやぼかしがかかるような過度の自主規制によって、子どもも大人も世界の紛争地帯で何が起きているかについて、ほとんど現実感覚を持つことが困難になっているのも事実だ」

イスラム国による人質事件。日本人2人の殺害後の残酷な写真は、どの新聞にも掲載されていない。

当然の配慮だと思う。そう思うが、でも「本当にそれでいいのか」という小さな引っ掛かりが残る。

僕自身も確かに目を背けたくなる衝撃的な写真や映像だった。積極的に見たいとは思わない。

しかし・・・、と思う。

東日本大震災のときもそうだった。被害者の遺体の写真や映像は、どのメディアも掲載しなかった。特に深い議論もなく、当然のことのように掲載されなかった。それが本当に正しいことなのか、実はよく分からないのである。

今の時代、私たちは何でもすぐに忘れてしまう。衝撃的な事件もただちに風化してしまう。衝撃的な写真や映像を回避しようとすることと、衝撃的な事件そのものをすぐに忘れてしまうことはセットの関係なのではないか。そう思ったりする。

ジャーナリストの青木理さんは次のように語っている。文化放送『ゴールデンラジオ』(2月6日放送)より。

「今回イスラム国が2人を殺した映像は、これはひどすぎるからマスコミが出すのをやめようと考えるのを、僕は理解できる。例えば東日本大震災の時も凄惨なわけです。遺体が転がったりしている。ところがマスメディアは一切死体を写さないことになっている。確かに配慮は必要。それによって一種本当のことが伝わっていない。正確な事実を広く伝えるという役割は果たしていない部分がある」

東日本大震災について、ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラーさんの指摘。著書『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』より。(2012年10月3日のブログ

「日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。だが、『1万人死亡』と数字を見せられただけでは、現場で本当は何が起きているか読者に伝わらない。私たちは、遺体の写真を報道することに大きな意味があると考えた」

「当然のことだが、亡くなった人たちの死を軽々しく扱ったり、センセーショナルな報道によって注目を集めるという意図など全くない。日本人が遭遇しているこの悲しく、厳しい局面を正確に伝えるために、『人間の死』から目をそむけずに報道するべきだとニューヨーク・タイムズは判断した。私もそう思ったし、いまもその考えは変わらない」 (P31)

被害者に配慮することは当然、必要だが、あまりにも意識し過ぎて、我々は肝心なことをも覆い隠してしまっているのかもしれない。震災遺構の保存が次々と取りやめになっていることも同じことだと思う。(2012年7月6日のブログ

遺体の写真を掲載するかどうかについても「時代によって違う」とのこと。社会学者の宮台真司さんTBSラジオ『デイキャッチ』(2月6日放送)より。

「適切性は時代とともに、国や文化とともに変わる。あるいは人々が持っている情報環境によって変わる。今は、インターネットみればいくらでもみられる。遡れば、三島由紀夫さんが自殺した時、岡田有希子さんが自殺した時、新聞にも雑誌にも遺体の写真が載った」

 今では、新聞や雑誌も配慮して載せない。一方でインターネットではみられる。

ただ多くの人は見ない。その結果、僕たちは出来事を一瞬だけセンセーショナルに消費し、そしてすぐに忘れ、歴史は繰り返されていく。

例えば、湯川さんや後藤さんの衝撃的な写真をもっと多くの人が見れば、いい意味でも悪い意味でも忘れられないショックを味わう。社会により大きな衝撃が走る。その結果、「イスラム国」への批判の声もより上がっただろうし、最悪の結果を招いた安倍政権のやり方への議論も盛り上がったのかもしれない。

確かに難しい。


こうしたことを小学校の授業で考えてみようとした教師がいた。今月3日、名古屋市の小学校で日本人2人が殺害された写真を児童に見せてから、メディアについて考える「メディア・リテラシー」の授業が行われた。その後、騒動となり、関係者は謝罪をした。(朝日新聞2月5日より

確かに小学5年生に写真を見せることに躊躇はある。個人的にはまだ早いと思う。

でも、これを一般論に広げて語っていいのだろうか。年代や素材の見せ方など、程度の問題でもあると思う。だからこそ、我々は、もっと議論しないといけないのではないか。その程度について。

ジャーナリストの神保哲生さんが主宰するビデオニュースドットコム。「ニュースコメンテータリー」(2月7日)では、この授業について考察していた。その解説では、次のように書かれている。

「少しでも気分を害するような映像にはめったやたらにモザイクやぼかしがかかるような過度の自主規制によって、子どもも大人も世界の紛争地帯で何が起きているかについて、ほとんど現実感覚を持つことが困難になっているのも事実だ。多少の不快感やショックを覚えるような映像でも、現実を直視しなければならないこともあろう」

そうだと思う。

さらに神保哲生さんは、その「授業で子供に見せたこと」自体についても議論するべきだと語っている。ビデオニュースドットコム「ニュースコメンテータリー」(2月7日配信)より。

「見せたことの是非を正当に判断するための情報を出さない、断罪するという『断罪路線』なんです。『そいつがひどい』ということがエスタブリッシュされた瞬間に、その人たちの言い分を出すこと自体が『お前テロリストの味方か』という議論に似ている」 (10分ごろ)

「見せるべきではない」という決断を下した瞬間に、相対する意見を全て排除する。これでは思考停止である。

でも、こうした風潮は、この写真の問題だけでなくいろんな場所で広がっている。

上記の青木理さんも、この風潮について触れている。文化放送『ゴールデンラジオ』(2月6日放送)より。

「一方で日本では同調圧力が強い。みんなと違うことをするのはいけないみたいことがある。言うべきことがなかなか言えなくなっている。リアルじゃないところで、言うべきことが言えない。だから『安倍首相を批判することはテロ組織を利することだ』みたいな勢いのいい言葉ばかりが飛んでくる。両面で物事の本質が見えにくくなっている」

また、「衝撃を与えたくない」として本当の姿を隠すことは、原発事故のあと「国民のパニックを避ける」という理由で、本当の情報を隠蔽した国や東電のやり方とも相似だったりする。(2013年4月1日のブログ

改めて確認しておくが、僕自身は、今回の人質事件でも、衝撃的な写真や映像を新聞に掲載したり、授業で見せる事にはやはり抵抗を感じる。


でも、そうやって覆い隠すことで、すぐに忘れる。それによって誰かが得をして、ほくそ笑んでいる。そのことも僕たちは考えなければならないのだと思う。



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