「少しでも気分を害するような映像にはめったやたらにモザイクやぼかしがかかるような過度の自主規制によって、子どもも大人も世界の紛争地帯で何が起きているかについて、ほとんど現実感覚を持つことが困難になっているのも事実だ」
イスラム国による人質事件。日本人2人の殺害後の残酷な写真は、どの新聞にも掲載されていない。
当然の配慮だと思う。そう思うが、でも「本当にそれでいいのか」という小さな引っ掛かりが残る。
僕自身も確かに目を背けたくなる衝撃的な写真や映像だった。積極的に見たいとは思わない。
しかし・・・、と思う。
東日本大震災のときもそうだった。被害者の遺体の写真や映像は、どのメディアも掲載しなかった。特に深い議論もなく、当然のことのように掲載されなかった。それが本当に正しいことなのか、実はよく分からないのである。
今の時代、私たちは何でもすぐに忘れてしまう。衝撃的な事件もただちに風化してしまう。衝撃的な写真や映像を回避しようとすることと、衝撃的な事件そのものをすぐに忘れてしまうことはセットの関係なのではないか。そう思ったりする。
ジャーナリストの青木理さんは次のように語っている。文化放送『ゴールデンラジオ』(2月6日放送)より。
「今回イスラム国が2人を殺した映像は、これはひどすぎるからマスコミが出すのをやめようと考えるのを、僕は理解できる。例えば東日本大震災の時も凄惨なわけです。遺体が転がったりしている。ところがマスメディアは一切死体を写さないことになっている。確かに配慮は必要。それによって一種本当のことが伝わっていない。正確な事実を広く伝えるという役割は果たしていない部分がある」
東日本大震災について、ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラーさんの指摘。著書『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』より。(2012年10月3日のブログ)
「日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。だが、『1万人死亡』と数字を見せられただけでは、現場で本当は何が起きているか読者に伝わらない。私たちは、遺体の写真を報道することに大きな意味があると考えた」
「当然のことだが、亡くなった人たちの死を軽々しく扱ったり、センセーショナルな報道によって注目を集めるという意図など全くない。日本人が遭遇しているこの悲しく、厳しい局面を正確に伝えるために、『人間の死』から目をそむけずに報道するべきだとニューヨーク・タイムズは判断した。私もそう思ったし、いまもその考えは変わらない」 (P31)
被害者に配慮することは当然、必要だが、あまりにも意識し過ぎて、我々は肝心なことをも覆い隠してしまっているのかもしれない。震災遺構の保存が次々と取りやめになっていることも同じことだと思う。(2012年7月6日のブログ)
遺体の写真を掲載するかどうかについても「時代によって違う」とのこと。社会学者の宮台真司さん。TBSラジオ『デイキャッチ』(2月6日放送)より。
「適切性は時代とともに、国や文化とともに変わる。あるいは人々が持っている情報環境によって変わる。今は、インターネットみればいくらでもみられる。遡れば、三島由紀夫さんが自殺した時、岡田有希子さんが自殺した時、新聞にも雑誌にも遺体の写真が載った」
今では、新聞や雑誌も配慮して載せない。一方でインターネットではみられる。
ただ多くの人は見ない。その結果、僕たちは出来事を一瞬だけセンセーショナルに消費し、そしてすぐに忘れ、歴史は繰り返されていく。
例えば、湯川さんや後藤さんの衝撃的な写真をもっと多くの人が見れば、いい意味でも悪い意味でも忘れられないショックを味わう。社会により大きな衝撃が走る。その結果、「イスラム国」への批判の声もより上がっただろうし、最悪の結果を招いた安倍政権のやり方への議論も盛り上がったのかもしれない。
確かに難しい。
こうしたことを小学校の授業で考えてみようとした教師がいた。今月3日、名古屋市の小学校で日本人2人が殺害された写真を児童に見せてから、メディアについて考える「メディア・リテラシー」の授業が行われた。その後、騒動となり、関係者は謝罪をした。(朝日新聞2月5日より)
確かに小学5年生に写真を見せることに躊躇はある。個人的にはまだ早いと思う。
でも、これを一般論に広げて語っていいのだろうか。年代や素材の見せ方など、程度の問題でもあると思う。だからこそ、我々は、もっと議論しないといけないのではないか。その程度について。
ジャーナリストの神保哲生さんが主宰するビデオニュースドットコム。「ニュースコメンテータリー」(2月7日)では、この授業について考察していた。その解説では、次のように書かれている。
「少しでも気分を害するような映像にはめったやたらにモザイクやぼかしがかかるような過度の自主規制によって、子どもも大人も世界の紛争地帯で何が起きているかについて、ほとんど現実感覚を持つことが困難になっているのも事実だ。多少の不快感やショックを覚えるような映像でも、現実を直視しなければならないこともあろう」
そうだと思う。
さらに神保哲生さんは、その「授業で子供に見せたこと」自体についても議論するべきだと語っている。ビデオニュースドットコム「ニュースコメンテータリー」(2月7日配信)より。
「見せたことの是非を正当に判断するための情報を出さない、断罪するという『断罪路線』なんです。『そいつがひどい』ということがエスタブリッシュされた瞬間に、その人たちの言い分を出すこと自体が『お前テロリストの味方か』という議論に似ている」 (10分ごろ)
「見せるべきではない」という決断を下した瞬間に、相対する意見を全て排除する。これでは思考停止である。
でも、こうした風潮は、この写真の問題だけでなくいろんな場所で広がっている。
上記の青木理さんも、この風潮について触れている。文化放送『ゴールデンラジオ』(2月6日放送)より。
「一方で日本では同調圧力が強い。みんなと違うことをするのはいけないみたいことがある。言うべきことがなかなか言えなくなっている。リアルじゃないところで、言うべきことが言えない。だから『安倍首相を批判することはテロ組織を利することだ』みたいな勢いのいい言葉ばかりが飛んでくる。両面で物事の本質が見えにくくなっている」
また、「衝撃を与えたくない」として本当の姿を隠すことは、原発事故のあと「国民のパニックを避ける」という理由で、本当の情報を隠蔽した国や東電のやり方とも相似だったりする。(2013年4月1日のブログ)
改めて確認しておくが、僕自身は、今回の人質事件でも、衝撃的な写真や映像を新聞に掲載したり、授業で見せる事にはやはり抵抗を感じる。
でも、そうやって覆い隠すことで、すぐに忘れる。それによって誰かが得をして、ほくそ笑んでいる。そのことも僕たちは考えなければならないのだと思う。