★忘れないために

2015年2月11日 (水)

「少しでも気分を害するような映像にはめったやたらにモザイクやぼかしがかかるような過度の自主規制によって、子どもも大人も世界の紛争地帯で何が起きているかについて、ほとんど現実感覚を持つことが困難になっているのも事実だ」

イスラム国による人質事件。日本人2人の殺害後の残酷な写真は、どの新聞にも掲載されていない。

当然の配慮だと思う。そう思うが、でも「本当にそれでいいのか」という小さな引っ掛かりが残る。

僕自身も確かに目を背けたくなる衝撃的な写真や映像だった。積極的に見たいとは思わない。

しかし・・・、と思う。

東日本大震災のときもそうだった。被害者の遺体の写真や映像は、どのメディアも掲載しなかった。特に深い議論もなく、当然のことのように掲載されなかった。それが本当に正しいことなのか、実はよく分からないのである。

今の時代、私たちは何でもすぐに忘れてしまう。衝撃的な事件もただちに風化してしまう。衝撃的な写真や映像を回避しようとすることと、衝撃的な事件そのものをすぐに忘れてしまうことはセットの関係なのではないか。そう思ったりする。

ジャーナリストの青木理さんは次のように語っている。文化放送『ゴールデンラジオ』(2月6日放送)より。

「今回イスラム国が2人を殺した映像は、これはひどすぎるからマスコミが出すのをやめようと考えるのを、僕は理解できる。例えば東日本大震災の時も凄惨なわけです。遺体が転がったりしている。ところがマスメディアは一切死体を写さないことになっている。確かに配慮は必要。それによって一種本当のことが伝わっていない。正確な事実を広く伝えるという役割は果たしていない部分がある」

東日本大震災について、ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラーさんの指摘。著書『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』より。(2012年10月3日のブログ

「日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。だが、『1万人死亡』と数字を見せられただけでは、現場で本当は何が起きているか読者に伝わらない。私たちは、遺体の写真を報道することに大きな意味があると考えた」

「当然のことだが、亡くなった人たちの死を軽々しく扱ったり、センセーショナルな報道によって注目を集めるという意図など全くない。日本人が遭遇しているこの悲しく、厳しい局面を正確に伝えるために、『人間の死』から目をそむけずに報道するべきだとニューヨーク・タイムズは判断した。私もそう思ったし、いまもその考えは変わらない」 (P31)

被害者に配慮することは当然、必要だが、あまりにも意識し過ぎて、我々は肝心なことをも覆い隠してしまっているのかもしれない。震災遺構の保存が次々と取りやめになっていることも同じことだと思う。(2012年7月6日のブログ

遺体の写真を掲載するかどうかについても「時代によって違う」とのこと。社会学者の宮台真司さんTBSラジオ『デイキャッチ』(2月6日放送)より。

「適切性は時代とともに、国や文化とともに変わる。あるいは人々が持っている情報環境によって変わる。今は、インターネットみればいくらでもみられる。遡れば、三島由紀夫さんが自殺した時、岡田有希子さんが自殺した時、新聞にも雑誌にも遺体の写真が載った」

 今では、新聞や雑誌も配慮して載せない。一方でインターネットではみられる。

ただ多くの人は見ない。その結果、僕たちは出来事を一瞬だけセンセーショナルに消費し、そしてすぐに忘れ、歴史は繰り返されていく。

例えば、湯川さんや後藤さんの衝撃的な写真をもっと多くの人が見れば、いい意味でも悪い意味でも忘れられないショックを味わう。社会により大きな衝撃が走る。その結果、「イスラム国」への批判の声もより上がっただろうし、最悪の結果を招いた安倍政権のやり方への議論も盛り上がったのかもしれない。

確かに難しい。


こうしたことを小学校の授業で考えてみようとした教師がいた。今月3日、名古屋市の小学校で日本人2人が殺害された写真を児童に見せてから、メディアについて考える「メディア・リテラシー」の授業が行われた。その後、騒動となり、関係者は謝罪をした。(朝日新聞2月5日より

確かに小学5年生に写真を見せることに躊躇はある。個人的にはまだ早いと思う。

でも、これを一般論に広げて語っていいのだろうか。年代や素材の見せ方など、程度の問題でもあると思う。だからこそ、我々は、もっと議論しないといけないのではないか。その程度について。

ジャーナリストの神保哲生さんが主宰するビデオニュースドットコム。「ニュースコメンテータリー」(2月7日)では、この授業について考察していた。その解説では、次のように書かれている。

「少しでも気分を害するような映像にはめったやたらにモザイクやぼかしがかかるような過度の自主規制によって、子どもも大人も世界の紛争地帯で何が起きているかについて、ほとんど現実感覚を持つことが困難になっているのも事実だ。多少の不快感やショックを覚えるような映像でも、現実を直視しなければならないこともあろう」

そうだと思う。

さらに神保哲生さんは、その「授業で子供に見せたこと」自体についても議論するべきだと語っている。ビデオニュースドットコム「ニュースコメンテータリー」(2月7日配信)より。

「見せたことの是非を正当に判断するための情報を出さない、断罪するという『断罪路線』なんです。『そいつがひどい』ということがエスタブリッシュされた瞬間に、その人たちの言い分を出すこと自体が『お前テロリストの味方か』という議論に似ている」 (10分ごろ)

「見せるべきではない」という決断を下した瞬間に、相対する意見を全て排除する。これでは思考停止である。

でも、こうした風潮は、この写真の問題だけでなくいろんな場所で広がっている。

上記の青木理さんも、この風潮について触れている。文化放送『ゴールデンラジオ』(2月6日放送)より。

「一方で日本では同調圧力が強い。みんなと違うことをするのはいけないみたいことがある。言うべきことがなかなか言えなくなっている。リアルじゃないところで、言うべきことが言えない。だから『安倍首相を批判することはテロ組織を利することだ』みたいな勢いのいい言葉ばかりが飛んでくる。両面で物事の本質が見えにくくなっている」

また、「衝撃を与えたくない」として本当の姿を隠すことは、原発事故のあと「国民のパニックを避ける」という理由で、本当の情報を隠蔽した国や東電のやり方とも相似だったりする。(2013年4月1日のブログ

改めて確認しておくが、僕自身は、今回の人質事件でも、衝撃的な写真や映像を新聞に掲載したり、授業で見せる事にはやはり抵抗を感じる。


でも、そうやって覆い隠すことで、すぐに忘れる。それによって誰かが得をして、ほくそ笑んでいる。そのことも僕たちは考えなければならないのだと思う。



2014年11月27日 (木)

「記憶し続けること、覚えているということが弱い民衆の武器なんだ。弱い人間は覚えていなきゃいけない、記憶していなきゃいけない」

最近、気になった言葉を転がしてみたい。

まずは、ジャズミュージシャンの菊地成孔さんの言葉。TBSラジオ『粋な夜電波』(11月22日放送)で作家の田中康夫さんを相手に次のように話していた。


「20世紀という世紀は、古典をみんなが当たらなくなってしまった。情報が増えてしまって、19世紀までには考えられなかった、読んでもいないけど読んだ気になるという現象がすごく増えた。逆に読んでいるのに忘れてしまっている。そんな中、もう一回古典に当たっていかないと人々がすり減ってしまう」 (29分ごろ)

「繰り返し申し上げますが、古典に当たるべきです。現代人は。じゃないとうつ病になるので。古典に当たりましょう」 (52分ごろ)

すごく深い指摘。ひとつの名言だと思う。

我々は、情報多寡のため忘れやすくなっている。大切なことまで忘れてしまう。だから、うつ病になってしまっている。だからこそ、歴史や知が詰め込まれた「古典」にあたる必要がある。

漫画家のヤマザキマリさんの次の指摘とも重なる。著書『男性論』より。

「いろんな書物を読んだり、絵や映画を見たり、音楽を聴いたり、世界中の街を歩いてみたりする。そうやって自分の想像力を駆使することで、いまは生きていない人たちとも、親密に付き合うことができるわけです」 (P222)

こんな言葉もある。書店員の田口久美子さん著書『書店不屈宣言』より。

「『本』は素晴らしい記憶装置だ」 (P239)

古典に当たれば閉塞した社会から時間軸で抜け出すことができ、自分を開放することができる、ということなのだろう。

でも、日本という社会はとにかく忘れたがる。自ら進んで「記憶喪失」になりたがっているように。(2013年4月11日のブログ

東日本震災、原発事故についても早々と色んなことを忘れている。戦争、憲法など、選挙を前に思い出した方がいいことはたくさんある気がする。

作家の大江健三郎さんの文章。著書『あいまいな日本の私』より。

「ミラン・クンデラという作家がいます。・・・かれが、権力を持っている強い連中のやり方は、忘れさせることだ、ひどいめにあったことは忘れさせて、もう一度同じことをやらせようというのが権力の考えることだというんです。その反対に、記憶し続けること、覚えているということが弱い民衆の武器なんだ。弱い人間は覚えていなきゃいけない、記憶していなきゃいけない。忘却を強いられるとき、われわれが抵抗する唯一の道は記憶することだ、とクンデラはいうのです」 (P134)





2014年10月23日 (木)

「上九一色にはオウムはない。みごとにない。まるで揮発してしまったかのように、きれいさっぱり消滅している。削除されている」

前回のブログ(10月17日)に続いて「過去や歴史を葬り去る日本社会」について。

今週のNHK『クローズアップ現代』(10月20日放送)「公文書は誰のものか」という特集をやっていた。その番組での言葉をメモ代わりに載せておきたい。

公文書の保存の意義について。歴史学者の加藤陽子さん

「国民の信託を受けて国がさまざまな活動をやっている。その活動の記録がそもそも残されていたなかったら、国民は生きた証がなくなるわけです」

「今までそれが出来なかったということで、国家的な損失は大きかったのではないか」


学習院大学教授の保坂裕興さん

「基本的な材料の公文書が失われてしまうことになって、過去に起こったことが検証できなくなるということが起こってしまう」

東京大学教授で政治学者、牧原出さん

「日本の場合には『沈黙は金』『しゃべらない』『残さない』という組織文化があって、公文書を残しにくい。行政官というのは、自分でやってきたことは全体の部分であって、部分だから重要でないということで、残そうとしない傾向がある」

「過去に省庁が公文書を保存していた場合も、あくまでも行政の執務のためであって、国民のためという意識が薄い」

「日本がどうして決めたのかは、世界にとっても意味があるし、そして何としても次世代に対する説明責任ではないかと思う。だからこそ残す責務が私たちにはある」


ちなみに、フランス公文書管理の予算60億円という。日本の予算は、その1/3に過ぎない。

公文書についてではないけど、先ほど読み終わった本から、歴史を消去する事例をひとつ。

作家の森達也さん著書『A3』(文庫版下巻)より。オウム真理教の本拠地・上九一色村のサティアン跡を訪れての言葉。

「戦後最大で最凶の事件。当時の新聞や雑誌の見出しには、このフレーズが何度も踊っていた。仮に日本社会にとって悪夢の記憶なら、なおのことそれを抹消すべきではない」 (P247)

「上九一色にはオウムはない。みごとにない。まるで揮発してしまったかのように、きれいさっぱり消滅している。削除されている」 P248)

「こうして上書きと更新をくりかえし、最終的に残されたのは一面の草原だ。確かにサティアン群の痕跡はどこにもない。でも不自然な消滅は逆に不安を煽る。欠落した何かを想起させる」 (P250)


そういえば、巣鴨プリズンもない。陸軍参謀本部があった市ヶ谷の建物も取り壊された。海軍軍令部のあった霞が関の建物もない。

東日本大震災の遺構も、3年しかたっていないのに、次々と消えていく。

こうやって我々の目の前から「歴史」がどんどん姿を消し、何もなかったように新しい建物に取り換えられていく。

前回(10月17日)のブログでは、「歴史や過去を大切にしないと、いつのまにか歴史そのものを誰が書き換えてしまう」という話で終わった。

さきほど戦史研究家の山崎雅弘さんツイッター(10月15日)に、こんな指摘があった。

「自説に都合のいい歴史的事実だけに目を向け、不都合な歴史的事実は一切無視して、歴史解釈を歪める人間を『歴史修正主義者』と呼ぶが、その思考は麻薬的な魅力を持つ。過去の不都合な歴史的事実を『無かったこと』にする『全能感』を繰り返し味わうと、やがて現実も同様に操作できるという錯覚に陥る」



2014年10月17日 (金)

「歴史を忘れた国は問題を起こします」

「予測社会」その12。ちょっと番外編な感じだけど。

今週火曜日(10月14日)、特定秘密保護法の運用基準と施行期日を定めた施行令が閣議決定された。

東京新聞(10月15日)には、次の一文があった。

「秘密指定の期間は原則三十年だが、一度指定されれば、政府の判断で永久に指定され続ける懸念もそのまま残った」

日本弁護士連盟会会長声明(10月14日)にも、次のように書かれている。

「特定秘密を最終的に公開するための確実な法制度がなく、多くの特定秘密が市民の目に触れることなく廃棄されることとなる可能性がある」

このままでは歴史事実が「特定秘密」のまま、永久に闇に葬られる可能性がある、ということ。

未来を予測で埋める「予測社会」。 

この裏には、過去や敗戦を反省検証しない「永続敗戦」があると前々回のブログ(10月9日) で書いた。

池上彰さんの言葉を改めて。毎日新聞(2013年1月1日)より。(2013年1月8日のブログ

「未来を見るためには、まず、過去を見よ。人間は、いつの時代も、同じような行動をとり、成功したり、失敗したりしています。すこし前の歴史を見ると、現代とそっくりではないかと思えるようなことがたくさんあります」

内田樹さんの「未来は現在の延長ではない」という言葉を用いていたが、反対に「少し前の歴史と現代とはそっくり」ということになる。

だから「未来予測」なんかよりも、過去や歴史を見つめることが大事になるのではないか。

こで今回も、過去や歴史についての言葉を改めて並べたい。(「歴史から学ぶ」

NHKディレクターの高木徹さん著書『国際メディア情報戦』より。

「重要文書を都合が悪くなると焼いてしまう。それは欧米諸国と比較すると顕著な日本の特徴だ」 (P3)

「アメリカでは、過去の公文書は納税者である国民のものであり、基本的には公開されるべきで、それが民主主義の根本原則だという考えが浸透している。公文書館のスタッフも自らの仕事を、民主主義を支え国民に資するものとして誇りを持っている」 (P4)

作家の保阪正康さん著書『「昭和」を点検する』より。

「日本の戦争に関する資料はほとんど残っていない。軍事裁判での戦争責任の追及を恐れたんでしょうが、次の時代に資料を残して、判断を仰ぐという国家としての姿勢がまったくなく、燃やせということを平気でやる」 (P178)

「私は基本的には政治・軍事の当事者が、自分の時代しか見ていなかったのだと思います。それは歴史に対する責任の欠如ではないか」 (P179)

作家の半藤一利さん。同じく著書『「昭和」を点検する』より。

「国家には『資料の整理保存、それはおまえの仕事だろう』と言いたいですね」 (P180)

「証拠隠滅は歴史への冒涜です」 (P182)

日本という国は、歴史を消去することを繰り返してきた。

緒方貞子さんの言葉。朝日新聞(9月17日)より。

「歴史を忘れた国は問題を起こします」

きっと、この言葉は忘れてはならない。

そして作家の葉室鱗さん。今、映画が公開されている小説『蜩ノ記』。この中で、家譜という藩の歴史書を編む主人公の戸田秋谷は次のセリフを口にする。

「家譜が作られるとは、そういうことでござる。都合好きことも悪しきことも遺され、子子孫孫に伝えられてこそ、指針となる」 (P40)

「だが、先の世では仕組みも変わるかもしれぬ。だからこそ、かように昔の事績を記しておかねばならぬ。何が正しくて何が間違っておったかを、後世の目で確かめるためにな (P46)

「御家の真を伝えてこそ、忠であるとそれがしは存じており申す。偽りで固めれば、家臣、領民の心が離れて御家はつぶれるでありましょう。嘘偽りのない家譜を書き残すことができれば、御家は必ず守られると存ずる」 (P310)

ここで出てくる「指針」という言葉。個人的には、この「指針」こそが「予測」よりも大事なのではないかと思っている。

未知なる「未来」を不安がり、それを予測で埋めて「確実な未来」を手に入れることに躍起になるよりも、歴史を見つめ過去から学び、「指針」を得る。その「指針」を支えに、「不確実な未来」を歩んでいく。こんな感じだ。

でも実際の社会には、「予測」があふれ返る。みんな過去や歴史を振り返らない。いつの間にか、誰かが過去や歴史を「美しく書き換え」ても気づかない。そんなジョージ・オーエル『1984』のような世界がやってこないことを祈る。


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