「賛同以外には考えられないようなテーマについても、異論を表する人がいる社会の方が、同化圧力でみな同じという社会よりも望ましい」
前回のブログ(2月5日)の続き。「政権を批判すること」を同調圧力で抑え込もうとする風潮について。
戦史研究家の山崎雅弘さん。自身のツイッター(2月7日)より。
「思考が『戦時』になると、戦争遂行に反対する人間は『敵の仲間』として攻撃の標的にし始める。政府への批判を『イスラム国側に立った視点』と悪意でねじ曲げて宣伝し、標的への攻撃を煽動している」
確かに、社会の人たちを「敵か、味方か」に2つに区分して考える傾向が強くなっているのかもしれない。
物事を二分して考え、異なる相手に対して不寛容になる。そこには対話もコミュニケーションも存在しない。
内田樹さんの、こんな指摘と重なる。『「他力資本主義」宣言』(著・湯川カナ)より。
「おもしろかったのは、この『コミュ障』だと自称する学生たちが、まわりの学生たちのコミュニケーションのありようをきびしく批判していたこと」
「判ったことは、この学生たちにとってコミュニケーションというのは
all or nothing のデジタルなものらしいということ。完全なる理解と共感が成立していているのがコミュニケーションで、それ以外はゼロ、というふうに考えているらしい」 (P190)
コミュニケーションが成立しない相手は、存在価値のないもので、排除すべきもので、攻撃すべきもの。そんな感じなのだろうか。
先の山崎雅弘さんも、次のように書く。自身のツイッター(2月7日)より。
「他者と交渉する能力を、自分が持たないことに薄々気づいている人間は、不都合な相手との関係が悪化すると『あいつとは交渉しない』と言い放って関係を断つ。そうすれば、交渉能力の無さという自分の能力的欠如が露呈しないで済む。交渉能力に自信が無い人間ほど、居丈高に勇ましいポーズで、そう叫ぶ」
言ってみれば、社会全体が「コミュニケーション障害」に陥っているのかもしれない。
いちいち相手やその価値観を「敵か、味方か」「all
or nothing」で考えても、社会は前に進んでいかない。きっと。
茂木健一郎さんの言葉。自身のツイッター(2月7日)より。
「賛同以外には考えられないようなテーマについても、異論を表する人がいる社会の方が、同化圧力でみな同じという社会よりも望ましい。異論を唱えた人の意見に必ずしも賛成するということではない。『あなたはそのような考えなのですね』と、ただ、認識すればいいのだ」
その通り。いろんな人がいてもいいのだ。「敵」と「味方」に無理に分けて、その相手を排除する必要もない。
話は少し変わるが、作家の島田雅彦さんは、次のようにコメント。自身のツイッター(2月5日) さん。
「政権批判がテロリスト擁護だって?いつから日本は中国になったんだ?」
その中国については、今日の朝日新聞(2月7日)に載っていた中国のカフカ賞受賞作家、閻連科さんのインタビューが興味深い。こんな指摘があった。
「権力は枯れた花すら咲かす勢いです。北京でアジア太平洋経済協力会議(APEC)が開かれたとき、海外の賓客を迎えるにあたって汚れた空が青く変わったでしょう」
「権力は空の色まで変えられる。これがいまの中国です」
空の色すら統御(コントロール)したいというのが中国における国家権力なのである。
もしかしたら、本当に安倍総理も日本をそんな国にしたいのかもしれない。ここ1年の言動を見ていると、そう思えてくる。
このインタビューに寄稿する、いとうせいこうさんの言葉は大切だと思う。朝日新聞(2月7日)より。
「政治の季節にこそ、そうした“非リアリズムによるリアル”が活きる。単なるリアルは即座に弾圧される」
「権力の目をいかに盗み、言い逃れをし、受け手を笑わせてしまうか。同時に表現の刃を決してなまらせずに切実な小説世界を作り出すか。そしてまた発禁を繰り返されてもどこかに届いてしまうような魅惑的な物語を編むか。その闘争の過程の中でこそ、文学がぎらぎらと輝く」
ますます堅固とならんと欲する国家権力。それに対しては、ただ直線的に批判してもいけない、ということだろう。僕たちは、クリエイティブな批判の方法を見つけ出さないといけないのだろう。
文化人類学者の今福龍太さんの次の言葉を思い出す。毎日新聞(2014年10月31日)より。(2014年12月17日のブログ)
「差別的現実に硬化し、権力による監視や懲罰という対抗にうって出ることは、かえって社会の柔軟な自浄作用を阻害する。むしろ、パロディや関節はずしのようなエレガントな対処法によって、この問題への一人一人の理解の裾野を広げてゆくことも重要だ」
最後にもうひとつ追加。
作家の高橋源一郎さんの言葉。ついさっき自身のツイッター(2月7日)に書いていた。テロリストについての指摘。
「彼らの最大の特徴は『他者への人間的共感の完璧な欠如』だ。だが、これは『テロリズム』の形をとらずに、ぼくたちの周りにも広がっている。いちばん恐ろしいのはそのことだ」
これも社会や世界そのものが「コミュニケーション障害」に陥っているのでは、という指摘である。