★なぜ社会風刺が許されないのか

2015年2月 7日 (土)

「賛同以外には考えられないようなテーマについても、異論を表する人がいる社会の方が、同化圧力でみな同じという社会よりも望ましい」

前回のブログ(2月5日)の続き。「政権を批判すること」を同調圧力で抑え込もうとする風潮について。

戦史研究家の山崎雅弘さん自身のツイッター(2月7日)より。

「思考が『戦時』になると、戦争遂行に反対する人間は『敵の仲間』として攻撃の標的にし始める。政府への批判を『イスラム国側に立った視点』と悪意でねじ曲げて宣伝し、標的への攻撃を煽動している」

確かに、社会の人たちを「敵か、味方か」に2つに区分して考える傾向が強くなっているのかもしれない。

物事を二分して考え、異なる相手に対して不寛容になる。そこには対話もコミュニケーションも存在しない。

内田樹さんの、こんな指摘と重なる。『「他力資本主義」宣言』(著・湯川カナ)より。

「おもしろかったのは、この『コミュ障』だと自称する学生たちが、まわりの学生たちのコミュニケーションのありようをきびしく批判していたこと」

「判ったことは、この学生たちにとってコミュニケーションというのは all or nothing のデジタルなものらしいということ。完全なる理解と共感が成立していているのがコミュニケーションで、それ以外はゼロ、というふうに考えているらしい」 (P190)

コミュニケーションが成立しない相手は、存在価値のないもので、排除すべきもので、攻撃すべきもの。そんな感じなのだろうか。

先の山崎雅弘さんも、次のように書く。自身のツイッター(2月7日)より。

「他者と交渉する能力を、自分が持たないことに薄々気づいている人間は、不都合な相手との関係が悪化すると『あいつとは交渉しない』と言い放って関係を断つ。そうすれば、交渉能力の無さという自分の能力的欠如が露呈しないで済む。交渉能力に自信が無い人間ほど、居丈高に勇ましいポーズで、そう叫ぶ」

言ってみれば、社会全体が「コミュニケーション障害」に陥っているのかもしれない。

いちいち相手やその価値観を「敵か、味方か」「all or nothing」で考えても、社会は前に進んでいかない。きっと。

茂木健一郎さんの言葉。自身のツイッター(2月7日)より。

「賛同以外には考えられないようなテーマについても、異論を表する人がいる社会の方が、同化圧力でみな同じという社会よりも望ましい。異論を唱えた人の意見に必ずしも賛成するということではない。『あなたはそのような考えなのですね』と、ただ、認識すればいいのだ」

その通り。いろんな人がいてもいいのだ。「敵」と「味方」に無理に分けて、その相手を排除する必要もない。

話は少し変わるが、作家の島田雅彦さんは、次のようにコメント。自身のツイッター(2月5日) さん。

「政権批判がテロリスト擁護だって?いつから日本は中国になったんだ?」

その中国については、今日の朝日新聞(2月7日)に載っていた中国のカフカ賞受賞作家、閻連科さんのインタビューが興味深い。こんな指摘があった。

「権力は枯れた花すら咲かす勢いです。北京でアジア太平洋経済協力会議(APEC)が開かれたとき、海外の賓客を迎えるにあたって汚れた空が青く変わったでしょう」

「権力は空の色まで変えられる。これがいまの中国です」


空の色すら統御(コントロール)したいというのが中国における国家権力なのである。

もしかしたら、本当に安倍総理も日本をそんな国にしたいのかもしれない。ここ1年の言動を見ていると、そう思えてくる。

このインタビューに寄稿する、いとうせいこうさんの言葉は大切だと思う。朝日新聞(2月7日)より。

「政治の季節にこそ、そうした“非リアリズムによるリアル”が活きる。単なるリアルは即座に弾圧される」

「権力の目をいかに盗み、言い逃れをし、受け手を笑わせてしまうか。同時に表現の刃を決してなまらせずに切実な小説世界を作り出すか。そしてまた発禁を繰り返されてもどこかに届いてしまうような魅惑的な物語を編むか。その闘争の過程の中でこそ、文学がぎらぎらと輝く」


ますます堅固とならんと欲する国家権力。それに対しては、ただ直線的に批判してもいけない、ということだろう。僕たちは、クリエイティブな批判の方法を見つけ出さないといけないのだろう。

文化人類学者の今福龍太さんの次の言葉を思い出す。毎日新聞(2014年10月31日)より。(2014年12月17日のブログ


「差別的現実に硬化し、権力による監視や懲罰という対抗にうって出ることは、かえって社会の柔軟な自浄作用を阻害する。むしろ、パロディや関節はずしのようなエレガントな対処法によって、この問題への一人一人の理解の裾野を広げてゆくことも重要だ」

最後にもうひとつ追加。

 

作家の高橋源一郎さんの言葉。ついさっき自身のツイッター(2月7日)に書いていた。テロリストについての指摘。

「彼らの最大の特徴は『他者への人間的共感の完璧な欠如』だ。だが、これは『テロリズム』の形をとらずに、ぼくたちの周りにも広がっている。いちばん恐ろしいのはそのことだ」

これも社会や世界そのものが「コミュニケーション障害」に陥っているのでは、という指摘である。

 

2015年2月 6日 (金)

「でもここで批判すると『テロの味方をするのか』と言われるのが今の日本です。やはり非常に危うい状況にあると言わざるを得ません」

「翼賛体制構築に抗するという『声明』を」という動きがある。ドキュメンタリー監督の想田和弘さんが中心となっている。

その「自粛という名の翼賛体制構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」(案)には以下の文章がある。

事件発生以来、現政権の施策・行動を批判することを自粛する空気が日本社会やマスメディア、国会議員までをも支配しつつあることに、重大な危惧を憶えざるを得ない。
「このような非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」
「人命尊重を第一に考えるなら、政権の足を引っ張るような行為はしてはならない」
「いま政権を批判すれば、テロリストを利するだけ」
そのような理屈で、政権批判を非難する声も聞こえる。

心の底からそう思う。もちろん賛同した。

このブログでも「批判・批評」や「自粛」にまつわる風潮については何度も取り上げてきた。(「批評・批判」 「水を差す」

想田和弘さんは、次のように書いている。神奈川新聞(2月4日)より。

「事件をめぐる反応で上がった『いま政権を批判すればテロリストを利するだけ』という声は違うと思う」

それに、そう言う人は日本が他国と交戦状態になったときも同じことを言うでしょう。『いま政権を批判すれば敵国を利するだけ』と。戦時中の翼賛的状況と同じです」

「当時のブッシュ大統領は『アメリカ側につくか、テロ側につくかのいずれかだ』という言葉で選択を迫りました。テロが許されないのは当たり前。でもどう対処していくかの発想は二者択一ではなく、さまざまな意見があってよいはずです」

こうした風潮は、今回の事件だけではない。既にいろいろ広がっている。

憲法学者の木村草太さん文化放送『ゴールデンラジオ』(2014年12月10日放送)より。

まず、バラエティ番組について次のように指摘する。

「バラエティもそうで、『なんかヘンだよね』と思っているときに、『これヘンですよ』と言ってくれる人がいないと、人はどんどん委縮していってしまう」

「ツッコミどころ満載の所はちゃんと面白おかしくツッコンであげることによって、市民の理解を共有していく。大事な役割だと思う」


そして、社会全体に対して、次のように語る。

「ヘンなことが進んでいるときに『おかしいでしょう』という空気が盛り上がらない」

「今はメディアの空気が『景気を良くしなければいけない時にそんなこと言っている場合ですか?』という議論がとても多い。そんなことよりも、まずは景気が良くならないと日本が成り立つ前提が欠けるでしょう、というタイプの議論。合理的な議論とか、おかしいよねと言おうとすると、それはイデオロギーに過ぎないとか、経済が悪くなったらどうするんだという議論になってしまう。殆どこれは恫喝。そういう空気になって、合理的な議論が出来なことがマズイと思う」


社会学者の宮台真司さんの指摘。ビデオニュース・ドットコム『映画が描くテロとの戦い』(1月31日配信) より。

「大成翼賛の最後にあるロジックは『今、そんなことを言っている場合か』というもの。『戦争の最前線に血を流して戦っている人がいるのにそんな態度でいいはずないだろう』という風に言う」 (パート①17分ごろ)

そんな風潮の中で、政権が「憲法改正」に手を付けようとしている。ちゃんとした議論ができるのか。

もう一度、想田和弘さんの言葉。神奈川新聞(2月4日)より。

「70年前の日本は恐らくこういう空気だったんじゃないか、と。戦争は一夜明けて突然始まったわけじゃない。抗わないといけない大事な局面で声を上げず、何もしないまま、誰も物を言えなくなり、そして戦争が起きた時にはもう手遅れだった」

「でもここで批判すると『テロの味方をするのか』と言われるのが今の日本です。やはり非常に危うい状況にあると言わざるを得ません」

権力・権威に対して「ヘンだ」と思った事をちゃんと声に出す。そうでないと手遅れになってしまう。

これは専門家だけのことではない、僕たち一般の個人レベルにも当てはまること。

批評家の東浩紀さんTFM『学問のススメ』(2014年9月16日放送)より。

「専門家じゃなかったら黙っていろ、という風潮が今はある。それはよくない。素人がたくさんいるということは大事。ある特定の政策なりを専門家しかわからなくて、他の人は沈黙しているという状態は社会にとって不安定。素人が適当なことをしゃべっていることは大切」

どうでもいいことや弱者に向かっては、すぐに声に出す風潮はある。

そうではない。僕たちが忘れてはいけないのは、権力や権威という自分より「大きなもの」に対して、もっと素直に声を出すこと。批判の声、「ヘンだ!」という声、そして賛同の声も、色んなことを挙げていきたい。


2015年2月 4日 (水)

「敵でも憎い相手でも、その相手を理解することをしないといけない。そこに目をふさぐのは良くないことだと思う」

今回は軽く感じた「違和感」から、言葉を転がしてみたい。

安倍総理は中東訪問の際に行った会見について、今日(4日)午前の衆議院予算委員会で、次のように述べている。(東京新聞夕刊2月4日

「ISILがどう考えるかは推測するが、彼らの気持ちを忖度し、意向に沿うスピーチをするつもりはない。言葉が不適切だったとは考えていない」

一昨日(2日)の参議院予算員会でも安倍総理は、次のように述べている。(NHKニュース2月2日

「邦人が捕らわれているなかで、どういう影響があるかなど、当然、さまざまな観点から総合的に判断して、世界に発信していこうと決断した。テロリストの思いをいちいちそんたくして気を配り、屈するようなことは決してあってはならない」


「脅しに屈すれば『テロに効果がある』とテロリストが考え、日本人がさらに巻き込まれる可能性が高まる。テロリストの思いをそんたくするようなことがあってはならない」

忖度。上記のいずれの発言でも安倍総理はこの言葉を使っている。ほのかな「違和感」を感じる。

ちなみに、この部分を英字新聞(毎日新聞2月4日)では、こんな英語に訳している。

We do not have to pay terrorists excessive attention

直訳すれば「テロリストたちに過剰な注意を払うべきではない」。悪意を強めた訳し方をすれば「テロリストたちを眼中にいれるべきではない」となるだろうか。翻訳というのは幅が生まれるから怖い。

もちろん安倍総理の言いたいことは理解できる。ただ「忖度するようなことがあってはならない」という言葉をどういう意味合いで使ったのだろうか。それを正確に知りたい。

例えば、故事に「泥棒にも三分の理」というのがある。なぜ泥棒が生まれたのかを考えたり、彼を追い込んだ社会環境を良くしていくためには、その「三分の理」について考える必要がある。ということだと思う。それも「忖度」になるのだろうか。

今回のISILの件で言えば、テロリストの考えていることに共感する必要はないが、テロリストが何を考えているかを理解する必要はあると思う。そうじゃないと先に進めない。

第一、「忖度」とか、「理解」とか、「配慮」とかは、本来は程度の問題であって「all or nothing」というものではないと思う。

ただ最近の日本社会の風潮では、「泥棒に理なんかあるわけはない。考える必要もない」。そんな感じになっているのではないか。

こうした風潮についてコラムニストの小田嶋隆さんTBSラジオ『たまむすび』(2月2日放送)より。

「『こういう世界情勢を理解して』とか、『イスラムが置かれている状況を』などと専門家が言ったりすると、『どうしてテロリストの立場を理解する必要があるのか』という風に反論がする人がいる」

「『理解』という言葉を『共感する』とか『支持する』とかの意味で捉えている人が結構いる。専門家が 『理解する』という言葉をその状況をよく把握するということで使っているのに、『向うの味方するのか』と思われてしまう」


「日本には昔からある話。戦前も『英語は敵性言語だ』とか言って敵の研究をしなかった。ところがアメリカは日本と戦争するとき、日本語を使う人たちを大量採用して日本の分析をした」

「敵でも憎い相手でも、その相手を理解することをしないといけない。そこに目をふさぐのは良くないことだと思う」


室井佑月さんの次のコメントもつながっている。文化放送『ゴールデンラジオ』(1月30日放送)より。

「テレビ出ているときに『ちょっと待って!それってどうなるの?』『それは、あれじゃないの?』とか答えたりすると、すごい。『テロの味方なのか!』みないに言われる。テロって本当にひどい行為だと思うけど、その先について話せなくなっている」

物事の本質に迫ろうとする時、「敢えて考えてみる」という発想が必要なことがある。

でも今の時代、この「敢えて」というものが許されなくなっている。

「敢えて敵のことを理解してみる」「敢えて極論を考えてみる」という発言をしようものなら、昨今のネットを中心とした議論では、「敢えて」というワードが削除されて、その後に続く「言葉」「文脈」だけが切り離されて流通してしまう。そして勝手なレッテルを張られて叩かれる。

やれやれ。

漫画家のしりあがり寿さんの言葉も印象に残ったので流れで。朝日新聞(2月2日)より。

「何が不快かは人それぞれ。でも配慮を拡大すれば、必要なものまで自粛しかねません」

「相いれない表現に自分を開き、自分を更新する機会を逃がさないことが大切なんだと思います」

「知りたくはないけど大切なものもある。小さな摩擦を恐れてあいまいなままにしておくと、爆発まで行きかねないですよね」


前回(2月3日のブログ)に続き、日本教育大学院大学客員教授の北川達夫さんの言葉。著書『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』より。(2014年7月19日のブログ

「相手の見解があって自分の見解がある、それが対立するとお互いが変わってくる。まさに、その変わってくるところを楽しめるか。そこを重視できるかですよね」 (P175)


最後に、先日亡くなった元ドイツ大統領のワイツゼッカー氏の言葉を載せておきたい。『新版 荒れ野の40年』より。

「人間は何をしかねないのか-これをわれわれは自らの歴史から学びます」 (P28)

「若い人にお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい」 (P29)

相手への理解を拒絶して、悪意や憎悪で報復を繰り返していくと、やがて戦争にたどりついてしまう…。それだけは避けなければならない。

今回は小さな「違和感」からアッチコッチ行きながら言葉を転がして、つなげてみまた。



「多様性」

「忖度」



2015年2月 3日 (火)

「『テロ』って言葉を使っていいかどうか。毎回毎回すごく慎重になる。アメリカなんかは自分の言うことを聴かないやつのことを平気で『テロ』って呼んでしまうことも多い」 

「なぜ日本という社会では、映画、音楽、お笑いで社会風刺や権力批判をすることが許されないのか!?」

このことについて、今年(2015年)に入ってから、このブログでは何だかんだ考えている気がする。

もしかしたら、僕たちは、知らず知らずのうちに「表現の自由」を手放そうとしているのかもしれない。

それを食い止めるためには、何をしたらいいのか。

社会学者の宮台真司さんの言葉。アメリカで上映について騒動が起きた映画『ザ・インタビュー』について語っていたときの指摘。ビデオニュース・ドットコム『映画が描くテロとの戦い』(1月31日配信) より。

「所詮、市民社会が成熟していない日本では、『上映して何かあったら、我々に批判が及ぶから、やっぱり上映しない方がいいよね』と思う人間が、繰り返し繰り返しこの社会を維持してしまう」 (パート②31分ごろ)

誰かが突破口を切り開き、循環を断ち切らなければならない。そうしないと、新しいほうには決して向かわない。その誰かはきっとひどい目に遭う。でも続かないとダメ。『この人が頑張っているから、俺たちも続かないとダメだよ』という人間が、細々でも出てくれば段々大きくなる。見殺しちゃったら、『ほら、やっぱりダメだよ』となってしまう」 (パート②32分ごろ)

その通りだと思う。

桑田佳祐さんや爆笑問題の騒動の収拾の仕方は確かに残念だった。

だけど、それに続くもの、彼らをフォローするものが出てこないと、結局、社会は「自粛」や「自己規制」に向かってしまう。そして、いつの間にかその「自粛」や「自己規制」、そして「謝罪」までもがスタンダードになってしまう。

音楽業界やメディアの人たちは黙っている場合ではない。今こそ、彼らに続くべきだと思う。だが今は、力及ばずの自分自身も正直歯がゆい。

話題は変わる。

上記の番組(ビデオニュース・ドットコム『映画が描くテロとの戦い』1月31日配信)で、宮台さんの話し相手は、ブロードキャスターのピーター・バラカンさん。

 そのピーター・バラカンさんが、今回起きた人質事件について、次の言葉を口にした。

「『テロ』って言葉を使っていいかどうか。毎回毎回すごく慎重になる。アメリカなんかは自分の言うことを聴かないやつのことを平気で『テロ』って呼んでしまうことも多い」 (パート①48分ごろ)

確かに、そうだ。その通り。

今朝の朝日新聞(2月3日)を読んでいても、東京大学東洋文化研究所教授の長沢栄治さんが次のように語っている。

「『テロ』は非常に注意して使わないといけない言葉だ」

現代イスラム研究センター理事長の宮田律さんの指摘。同じく朝日新聞(2月3日)より。

「日本は『テロ』という表現につきあいすぎているのではないか。安倍首相の発言には、テロやテロリストという言葉が非常に多い。『イスラム国』にとっては、非常に『かんに障る』表現ではないかという気がする」


そもそもテロって何だろう?それについてもっと深めて考えないといけない。

そうしないと、良かれと思っての批判や批評に対しても「テロ」ととらえてしまう風潮が出来かねない。

石破茂氏の言葉を思い出す。(2014年11月29日の自身のブログ

「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」

この先、迷惑な奴、面倒な奴は、全て「テロ」というカテゴリーに入れられてしまいかねない。

ドキュメンタリー監督の想田和弘さんの懸念にも肯ける。ネット『BLOGOS』(1月25日配信) より。

「たぶんアメリカ人や日本人の多くはテロリストをゴキブリのような存在としてイメージし、徹底的に殺せばいなくなるものだと今でも考えていると思いますが、そういうイメージそのものが致命的に誤っているのです」

「たとえテロリストが皆殺しに合い、一時的にこの世から一人もいなくなったとしても、『テロリズム』というコンセプトが存在し、それに共感する人がいる限り、再びテロリストが生まれる可能性は残ります」

リスクを忌避し、必要以上に「リスク・ゼロ」を追い求める社会と、徹底的なテロ撲滅を目指す気持ちはどこか共通するものがあるのかもしれない。

もちろん、イスラム国の数々の行いは受け入れがたいものである。

でも僕たちに出来る事。それはイスラム国をどうするかよりも、まずは、自分たちの社会の中で、足元や目の前の「多様性」を認めることから始めること。それから手を付けていくしかない。そんな気がする。

異質なもの、面倒なもの、迷惑なもの、自分を批判するもの…。そういったものに安易に「テロ」というレッテルを貼り付け、忌避し、排除する。その循環をどうにかして断ち切らないと、何も始まらない。

世の中は簡単には変わらない。目の前から時間をかけて変えていくしかない。

以前、養老孟司さん「だましだまし」という言い方をしていた。日経ビジネスオンライン(2012年2月10日)より。(2012年3月8日のブログ

「一気に更新しようというのではなく、『だましだまし』やるという姿勢は大事なことだよ」

最近読んだ『「他力資本主義」宣言』から。著者の湯川カナさんの言葉を。

「デコボコした人間ばかりの集まりであるこの世界を、まるごと認めちゃえばいい。ちゃんと、相手のでこぼこも、認めてくださいね。相手のデコボコをうまく認められないとき、『正しさ』が、どこかに忍び込んできます。『自分が正しい』という考えは、まわりがぜんぶ間違っているということ、世界が間違っているということですから」 (P130)

そして日本教育大学院大学客員教授の北川達夫さんの言葉。著書『苦手なあの人と対話する技術』より。(2014年7月19日のブログ

「多様な『正しいこと』をすり合わせ、みんなで『正しいこと』を模索し続けなければ、破滅の道を歩んでしまうのではないか」 (P30)



2013年5月15日のブログ

「多様性」

目の前」


2015年1月30日 (金)

「『プロテストソング』とは、何か。既に存在するモノ、コトに対して『それは違いまっせ』と異議申し立てする歌のこと」 

まだHDDが直らず、文章が出てこない。本当に残念…。

前回のブログ(1月22日)では、桑田佳祐さんにまつわる騒動について書いた。

アーティストによるこの程度のパフォーマンスがなぜ許されないのか。これについて、ウダウダと考えている。

岩手県の達増卓也知事が、記者会見(1月19日)で次のように述べていた。


「清志郎さんの方はタイマーズという名前で、あえて放送自粛になる類いの権力批判とか、権威批判的な歌ばっかり集めたアルバムを出したりしていて、そういうことができる文化環境の方がいいのではないかなと思います」

「もちろんタイマーズのアルバムについて、不謹慎だとか、嫌だ、俺は聞かないとか、そういう人たちがいてもいいわけですけれども、でもそういう表現の存在は認められるというような、やはりそういう時代に比べると、今は本当は表現手段としてはインターネットも発達して、よりいろいろできるような時代になっているはずなのですけれども、かえって自粛とか、あるいは他者に何々させないというような、あるいは何々を強いるようなプレッシャーが高まっているような感じはするので、そこはもうちょいおおらかになった方が良いのではないかと思います」


プレッシャー、すなわち「同調圧力」が高まり、権力批判をする表現が失われる。

ジャーナリストの上杉隆さんも、MXテレビ『週刊リテラシー』(1月24日放送)で次のように指摘していた。

「アーティストに自由がない。サザンが謝罪とか。同調圧力。すべての歌に自由を」

その上杉さんは、大きな騒動になる前、自身のラジオ番組TFM『タイムライン』(1月7日放送)で、最近のエンターテイメントの世界が政治に利用されている風潮について触れ、今回の桑田さんのパフォーマンスを評価していた。

「エンタメが一方的に政治に利用されているだけではない。エンタメが、アーティストも、抗うこともあります。その代表的な曲が、『平和と極右』ともとれるタイトル『ピースとハイライト』」

また今週のTFM『タイムライン』(1月28日放送)でも、次のように語り、サザンオールスターズ『ピースとハイライト』を番組の最後に流した。


「年末からいろいろ問題になっているサザンオールスターズ。彼らが色んな歌を発表して唄ったときに、社会的な圧力、自主規制、反対意見が多い」

「表現の自由と言いながらも、日本の社会は政治や色んなものがそれを規制している。今回のISISの事件もそうですが、様々なことで“自主規制”、“言ってはいけない”、“やってはいけない”ということがはびこっている」

「そういうことを打破する意味で、その歌が創られたと思う。その歌もまた、自主規制の波にのまれようとしている。ということで、敢えてこの曲を最後にお届けしたいと思う。サザンオールスターズで『ピースとハイライト』」


あの騒動以来、この『ピースとハイライト』をラジオでちゃんと耳をしたのは初めて。本当なら、もっとメディアがこの話題を正面から取り上げ、アーティストや音楽の世界や領域を守っていかないといけない。問題がないとするなら、どんどん曲を流すべき。そうしないと自粛が広がってしまう。

個人的な希望としては、今こそ、プロテストソングやメッセージソングの特集をやってほしい。

音楽評論家の藤田正さん雑誌『週刊金曜日』(2014年2月28日)より。

「『プロテストソング』とは、何か。既に存在するモノ、コトに対して『それは違いまっせ』と異議申し立てする歌のこと」 (P20)

それはメディア自身、アーティスト自身にも向かってくる。同じく音楽評論家の湯浅学さん著書『音楽を迎えにゆく』より。

「社会構造、権力の行使、政治体制、それらを糾弾することだけがプロテストだと思ったら大きな間違いだ。メディア権力はもちろんのこと、社会の一員なら誰でも、おそらくあらゆる人類が抵抗、プロテストの対象となる」 (P106)

安倍政権が暴走しかけ、メディアが自粛に逃げ、ファッショのニオイが充満し、世の中には「違和感」があふれる。そんな時代にこそ、プロテストソングが必要なんだと思う。

ジャーナリストの安田浩一さん。桑田さんのパフォーマンスについて「目くじらを立てるほどのことではない」としたうえで、前回このブログでも触れた「反日」という言葉について、次のように述べている。毎日新聞(1月26日)より。

「『反日』という記号をつけることで『敵』として認知し、追い込み、つぶすという回路ができている。書き込みには明瞭な理由などなく、不安・不満を解消する娯楽のようなものだ。拝外主義に通底するものがあるが、加担しているという意識もないまま広がっていく」

本当に、嫌な風潮である。

話は違うが、今週、東京新聞記者の田原牧さんの本を読んでいたら、次の言葉が出てきた。著書『ほっとけよ。』より。

「06年初頭、この国の政府は戦後、例のない面舵(右旋回)をきっている。眼前にセクハラならぬ『愛国ハラスメント』が横行する、無残な風景が広がっている」 (P102)

この言葉が書かれた当時も、小泉政権が対米従属を進め、イラクでの人質事件での「自己責任問題」など嫌な空気が広がっていた。

それから、10年近くが過ぎ、「愛国ハラスメント」の横行は留まる事をしらないよう。右旋回もどんどん加速する。

桑田佳祐さんには『ROCK AND ROLL HERO』という曲がある。小泉政権の対米従属を揶揄したまさにプロテストソング。僕の大好きな曲である。その歌詞から。

「Ah 国家をあげて右倣え 核なるうえはGo with you 暗い過去も顧みずに ついていきましょ・・・・Well」

メロディといい、まさに痛快な曲。しかも当時、コカ・コーラのCMソングだったのは、嫌味というかアイロニーが効いているというか。痛快。

『ピースとハイライト』も含め、こうした曲を葬り去ってはいけないと思う。またアーティストやクリエイティブの世界を、我々個人もメディアもちゃんと守っていかないといけない。


最後に。
エノケンこと、
榎本健一さんは、1954年に『これが自由というものか』という歌を唄っている。その歌詞から。作詞は三木鶏郎さん

「知らない間に値上げして 知らない間にMSA 知らない間に教育法  知らない間に機密法
 


  これは呆れた驚いた 何が何だかわからない これが自由というものか あなた任せの自由論」


まさに政権に対するプロテストソング。あたかも、60年経った今の時代を揶揄しているかのよう。

ただ60年後の現在では、こうした曲は同調圧力によってすぐに消されていくのだろう。まさに「自由というもの」は、どんどん小さくになっている。

2015年1月22日 (木)

「この程度のパフォーマンスが謝罪に追い込まれてしまう状況って、この国には言論の自由、表現の自由がないのではないか」

先週末、PCがウイルスにやられてハードディスクが開けなくなった。アップしようと思っていた文章や保存していたメモが消えてしまった。やれやれ…。まさに色んな言葉が「行方不明」になってしまった。

今回は、その後にメモった言葉を並べてみたい。

桑田佳祐さんの紅白歌合戦でのパフォーマンスと、それを受けての騒動、そして謝罪。この一連のことには、色んな「違和感」を持つ。

そもそも、何で大きな騒ぎになったのか全く分からない。

ジャーナリストの青木理さんTBSラジオ『デイキャッチ』(1月19日放送)より。

「この程度。自分たちの国家や民族が権威としているものを、ある種のパロディと受け止められかねない行為をした。所詮、この程度の表現の自由すら許されないのか…。僕はちょっと異常じゃないかと思う。こんなことで謝罪に追い込まれるとは」

「自国の権力者とか自国の権威とかを笑いとばす。あるいは茶化す。まさにロックアーティストとしては普通の振る舞い。むしろ世界標準の振る舞い」

「この程度のパフォーマンスが謝罪に追い込まれてしまう状況って、この国には言論の自由、表現の自由がないのではないか」


まったく同意する。

いろんなことを茶化して面白がる。これこそが、パロディであり、大衆音楽であり、歌の世界であり、アートである。色んな歌があっていいのだ。


桑田さんの表現がパッシングされるのは、NHKが爆笑問題に「政治家ネタ」を取りやめるよう要請したことと、同じ根っこによるものだと思う。(1月8日のブログ

でも、アーティスト、お笑い、そしてメディアそのものは、時に正攻法、パロディ、ユーモア、ブラックジョークなど色んな方法で権力を批判してこそ、その存在に意味があるのではないか。

久米宏さんは次のように語る。BS-TBS『みんな子どもだった』(12月28日放送)より。

「マスコミは反権力でなければ存在価値がない、と僕は思い続けていましたから。マスコミが政府の味方をしたら、その国はおしまいだ。信念として持っていた」

メディア、音楽、映画、演芸、スポーツなど全てが「カーキ色一色」になって政府の味方をした結果、70年前にこの国は暴走したのである。(1月14日のブログ

メディアも、アーティストも、もちろん全員が批判的になる必要もなければ、伝えるものが常に批判的である必要もない。でも、誰かがどこかでその要素を内包している必要があるのでは。批判精神を喪失ことは、すなわち自らの「存在価値」まで失うことなんだと思う。

また権力側にも、そうした批判やパロディを受け止め、享受する度量が欲しい。

こうした「政権批判」が、イコール「反日」という捉え方をする社会の風潮にも違和感を持つ。

そもそも「反日」って、何なんだろう。そう思う。

作家の保阪正康さんの言葉。NHK『クローズアップ現代』(1月13日放送)より。

「こういった乱暴な言葉が社会にまき散らされる。これが定着すれば、社会がおびえてしまう。俺は『反日』って言われるんじゃないか、『売国奴』って言われるんじゃないか、そういう恐れを持つ人が出てくる。おびえて言論の自由を享受しなくなる人が増えることの方が怖いと思う」

まさに、言論の自由、表現の自由がどんどんせばまられているのだ。現代進行形で。

もうひとつ。今回の桑田佳祐さんの問題では、パッシングして、謝罪を求めている人たちの姿があまり見えないのも個人的には気味が悪い。一体、誰なのか。どんな人たちで、どのくらいの人数なのだろうか。

コラムニストの小田嶋隆さんの言葉。『日経ビジネスオンライン』「小田嶋隆ア・ピース・オブ・警告」(2014年10月3日)より。

「言論を弾圧するのは、必ずしも悪の意図を持った、権力の手先ではない」

「戦前戦後を問わず、言論への暴力は、権力や警察が、直接に言論人の自由を拘束する形で発動されるばかりのものではない。むしろ、実数としては『世論』に後押しされたキャンペーンや、『苦情』や『問い合わせ』を偽装したいやがらせが、現場を萎縮させて行くケースの方が多いはずだ」

2015年1月10日 (土)

「今の時代はアウトサイダー、ドロップアウトしていくような人間に優しくない。ドロップアウトした人間もこの社会の横にいる、という感じがしなくなった…」

昨日のブログ(1月9日)では、ジャーナリズムは「もともとアウトサイダーの集団だった」という言葉を紹介した。

そこで思い出したのが、次の会話。作家の伊集院静さん大竹まことさん文化放送「ゴールデンラジオ」(2014年4月22日放送)より。

大竹 「本を読ませていただきましたが、今の時代はアウトサイダー、ドロップアウトしていくような人間に優しくない。ドロップアウトした人間もこの社会の横にいる、という感じがしなくなった…」

伊集院 「少なくなった。あれを呼ぶと、暴けるし、からむし…。昔はそれでも呼べ、と。で必ず暴れる。でも次回も呼んであげた」

まさに、メディアだけでない、社会全体から「迷惑をかける」「騒動を起こす」アウトサイダーたちが消去されている。

外国人排斥の動きや暴力団排除条例なんてのもこうした流れの中のものなのだろう。


メディアは、そんな社会の縮図に過ぎないのか。それともメディアが、そんな社会を率先しているのか。


今回は、「アウトサイダー」「異端者」についての言葉を並べたい。

養老孟司さんの指摘。著書『「自分」の壁』より。

「きっと会社などの組織でも『あの人はしょうがない』と言われる人がいるはずです。それはいい意味の場合もあれば、あきらめている場合もあるでしょうが、いずれにしても、その人の個性は何らかの形で受け入れられている」 P36)

こんな話も紹介している。

「江戸の寛政年間には『寛政の三奇人』と呼ばれる人がいました。林子平(経世家)、高山彦九郎(尊王思想家)、蒲生君平(儒学者)です。たとえば高山は、将軍の世にあえて熱心に尊王思想を説いた。明らかに変わり者です」

「では、それに幕府からおとがめがあったかといえば、そんなことはありません。単に『あいつは変わっている』『あいつは別』ということで済んだわけです。『奇人』というカテゴリーに入れてしまった」


「こういう寛容性、自由が江戸時代にあったのです。変わった人は人なりに、世間でポジションを得ることができた」 P98)

なぜ、アウトサイダーたちにもポジションを用意しておいた方がいいのだろうか。

内田樹さんの言葉。著書『街場の戦争論』より。

「企業だってそうです。どのような組織も必ずどこかで制度が経年劣化して、機能不全に陥るときがくる。そのとき組織を救う『リーダー』はそれまでの組織の格付け基準に従って順調に出世してきた『イエスマン』の中から決して出てきません。思いがけないところから出てくる」

「そういう『非常時用人材』を確保するために僕が企業の採用担当者にお勧めしているのは人事採用に際して『バカ枠』を用意しておくことです」
 
(P274)


森永卓郎さん朝日新聞(2014年9月20日)より。

「どんな業界であれ、アイデアや創造性を生み出すには、常識にとらわれない幅広い視点や異能がある『異分子』が欠かせません。かつての経営者は、すぐに利益に結びつかなくても、異分子を抱え続ける度量の広さがありました」

「異分子であっても、自由に意見をぶつけあえる風通しの良い社会をつくることが、偏った考えや判断の暴走を防ぎ、人々が豊かさを取り戻す近道だと考えている」

作家の橘玲さん著書『不愉快なことには理由がある』より。

「ブレークスルーを見つめるためには、自分と価値観のちがうひとたちと出会い、彼らと意見を交わし、共にゴールを目指さなければなりません。仲間同士でつるむのは快適かもしれませんが、それはもっとも反知性的な環境なのです」 (P234)

でも、実際の社会の企業などの組織では、アウトサイダーや異端者を徹底的に排除する風潮が強まっている。

それはなぜか。

政治学者の白井聡さん雑誌『SIGHT』(2014年夏号)より。

「結局もう、あらゆる政治経済、学問などの既得権益を持つエリートたちの、自分たちの世界を壊すこと、壊されること、これに対する恐怖心が強いんでしょうね」 (P104)

「我々の世界を壊すようなことを考える奴はいてはならないんだ、という形で排除してしまう。それでは組織として劣化していくのは当然です。そういう意味での劣化はもう、どの領域でもどんどん進行してきたんじゃないですか」 (P105)

「みんな意気地なしになっているんだと思うんですよ。ちゃんと言うべきことを言う人間は利権共同体から徹底的に排除されるという傾向が、ここのところ強まっていますから。昔は排除されても、捨てる神あれば拾う神ありで、なんとか食っていけるくらいにはやっていけたんでしょう」 (P103)

今の時代の「排除」というのは、とにかく徹底的に行われる。

森達也さん著書『アは「愛国」のア』より。

「『集団化』が加速するとき、集団内で異物探しが始まる。探してこれを排斥しようとする。なぜならそのとき、排斥する側は多数派として、連帯を実感できるからだ。異物イコール少数派。要するに学校のいじめと構造は似ている。それが社会全般で起きている」 (P274)

こうしてアウトサイダー、異端者が排除されていく…。

最後に映画監督の井筒和幸さんのこんなつぶやき。TBSラジオ『久米宏 ラジオなんですけど』(11月29日)より。

「映画にアウトローが出てこないとおもしろくないもん」

きっと映画の中だけの話ではない。メディアをはじめとした組織や社会全体にも、本当はいろんな人が必要なのだと思う。

果たして、アウトサイダーや異端者のいない社会、無駄のない社会の行く着く先は、どういう世界なのだろうか。

2014年7月4日のブログ

 

2013年2月5日のブログ

 

2015年1月 9日 (金)

「報道にコンプライアンスなんかあってはならないんです。本来は」

昨日のブログ(1月8日)の続き。

爆笑問題の漫才について、NHKの籾井会長はきのう記者会見で、次にように述べてる。


「お笑いの人のギャクで、ある個人に打撃を与えるのは品性がないと思う。やめたほうがいいのではないか」


少なくとも政治家は「個人」ではない。「公人」ある。

もちろん「弱者」に打撃を与えるのは論外である。でも強い者、権力者、既得権者、凝り固まったもの、そうした者を揺らし、ツッコミを入れ、からかい、水を差し、打撃を与えてこそ、お笑いだし、メディアなのではないか。

ギャクとは何か、パロディとは何か、笑いとは何か。NHKはもう一度、根本から考え直した方がいいと思う。(2014年5月13日のブログ

今回は、メディアの「自粛」が行く着く先のことについて。そんな言葉を。

ジャーナリストの
辺見庸さんの言葉。雑誌『週刊金曜日』(4月11日号)より。


「トラブル要因になりそうなものは自動的に消していく。支配権力ではなく、メディアの内部が無言で自己検閲と監視をしている」 (P19)

まさに今回、爆笑問題の漫才をめぐってNHKで起きていること。

太田光さんも、そうした自粛は「問題を避けるためのコンプライアンス」から起きるとコメントしていた。

さらに辺見庸さんは次のようにも述べている。著書『絶望という抵抗』より。

「良かれ悪しかれ、そうです。騒ぎになるとあてこんで紙面をつくるわけですから。報道にコンプライアンスなんかあってはならないんです。本来は。でもいまは、週刊誌から大新聞まで基本行動が変わらない。だから騒ぎは起きないし、記者たちも騒ぎも起こさないようにひたすら自己規制している」 (P44)

笑いも報道も、本来は「騒ぎ」を起こすもの。それによって、凝り固まった既成概念や閉塞感に風穴をあけ、新しい価値観・イノベーションを作ろうというもののはず。なのに、自粛、自己規制によって「騒ぎ」を自重する。

元日本テレビの記者の水島宏明さん著書『内側から見たテレビ』から。

「コンプライアンスという言葉の徹底で、表面上は世間や政治家などから『怒られない存在』(マツコ・デラックスの表現)であろうと細心の注意を払っている。番組の中身もそうだが、放送する放送局そのものもご立派な職場になった」 (P206)

僕が報道の現場にいた頃でも、もし「騒ぎ」となって、先方から怒られたとしても、誰か「勲章!勲章!」と言ってくれる人がいた。でも今の現場では、コンプライアンスにも「勲章」なんて言ってくれる雰囲気はないのだろう。

“立派な職場”になったのである。だからギャグにも「品位」を求めてしまう。やれやれ。


アメリカのジャーナリストのグレン・グリーンウォルドさん著書『暴露』より。

「往年の伝説の記者はみな例がなくアウトサイダーだった。ジャーナリズムの世界に足を踏み入れた者の多くは、イデオロギーだけでなく、その性格や気質によって、権力の手先となるより権力に楯突く道を選ぶ傾向にあった。ジャーナリストとしてのキャリアを歩むことは、アウトサイダーとなることに等しかった」 (P349)

「アメリカの体制派ジャーナリズムはアウトサイダーの集団とはまったく言えず、完全に国家の支配的な権力に呑みこまれてしまっている。文化の面から見ても、感情の面から見ても、社会経済の面から見ても、彼らは一心同体なのだ」 (P353)

だからメディアから「批判の精神」が消えていく。

こうした自粛や自己規制こそが、後の時代から振り返って見ると「言論弾圧」と呼べるものだったりするのかもしれない。


コラムニストの小田嶋隆さんTBSラジオ『たまむすび』(8月18日放送)より。

「実は言論弾圧と呼ばれていることは、何かを行った人間が警察に引っ張られていくとか、業界から干されるとかいう大げさなことではない。ちょっとある特定の話題に触れると、あとあとなんとなく面倒くさい、ちょっとうっとうしいとか、そういうビミョーなところで起きている。我々が面倒くさがって、スルーしていると、結果として言論弾圧が成功していることになる」

内田樹さん自身のツイッター(2014年10月3日)より。

「言論弾圧は権力から直接来るものではありません。ほとんどは『ことなかれ主義者』と『事大主義者』たちの『忖度』の効果です」

「『自分は悪いことをしていないけれど、党に迷惑を掛けたから』といって辞職する政治家たちがその宣布者たちです。それは言い換えると、どれほど清廉潔白であっても『まわりに迷惑を掛けた』人間は社会的地位を捨てなければならないという『ルール』を広めているということです。クレームの当否はどうでもよい、『まわりに迷惑をかけたかどうか』だけが問題なのだ、という話にみんなぼんやり頷いている」


新しい価値観を生んだり、イノベーションを起こしたり、それを模索することは、既得権を持つものにとっては、「迷惑をかけること」だし、「騒ぎを起こすこと」にほかならない。

そんな“ムラ人”と結託して、メディアやジャーナリズムが一緒に自粛しているようでは、閉塞感に風穴などあかない。ずっと風通しの悪い社会が続いていくことになる。

2015年1月 8日 (木)

「自粛なんですよ。これは誤解しないでもらいたいんですけど、政治的圧力は一切かかっていない」

2015年。新しい年です。いきなりインフルエンザに罹患。やれやれ。

今日(1月8日)の毎日新聞と朝日新聞に爆笑問題の記事が載っていた。ともに爆笑問題のラジオ番組がネタ元。NHK『初笑い東西寄席』(1月3日放送)での漫才で、政治ネタを取り上げるのを事前に却下されたという話。たまたま、このNHK番組も録画していたのを観ていた。佐村河内ネタとかは面白かったが…。

また、きのうのラジオ番組も録音したのをインフルエンザで苦しみながら聴いていた。
爆笑問題の2人の話を改めて載せてみたい。TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』(1月7日放送)より。

田中 「今回NHKのやつはさ、政治家さんのネタがあったんだけど、全部ダメって言うんだ。あれは腹が立ったな」

太田 「自粛なんですよ。これは誤解しないでもらいたいんですけど、政治的圧力は一切かかっていない。はっきり言って。テレビ局側の自粛っていうのはありますけど。それは問題を避けるためのコンプライアンス」

田中 「それが色濃くなっているのは肌で感じる」

自粛。いわゆる自主規制というやつ。今日は、そんな言葉を。

ジャーナリストの二木啓孝さんの言葉。東京新聞(2014年2月16日)より。

「(NHK問題について)一般的に組織はトップの『指示』がなくても、『発言や意向』に従って動くものだ。『忖度』と言われるものである」

政治学者の中島岳志さんの言葉を改めて。『街場の憂国会議』より。

「権力は多くの場合、直接的な介入によって行使されるのではなく、現場の勝手な忖度によって最大化する。特に、バッシングを繰り返す独断的な政治家とそれを支持する運動が結びついたとき、忖度は加速する」 (P155)

「巧妙で臆病な人間は、空気を忖度する。そして、忖度は連鎖する」 (P170)

「権力の発動は、直接的な介入によって行われるのではなく、勝手な忖度によって最大化する。問題は現場の人間の内側に存在する。個人が心がけるべきは、自己に宿った臆病に屈しないことである。空気を読まないことである」 P173)

きっと今回の自粛と、各放送局が選挙前に行った選挙報道の自粛はつながっている。(2014年12月13日のブログ

NHKの籾井会長による「政府が 右と言っているのに我々が左と言うわけにはいかない」などの発言が、現場の「自粛」「自己規制」「忖度」に連鎖しているのだろうか。


戦争中のジャーナリスト、馬場恒吾さんの言葉。『言論抑圧』(著・将基面貴巳)より。

「私は大東亜戦争の始まる年までは、一週間に一度は新聞に、毎月幾つかの雑誌に政治評論的のものを書いてきた。それがだんだん書けなくなって、戦時中は完全に沈黙せざるを得なかった。どうしてそうなったかというと、新聞や雑誌が私の原稿を載せなくなったからである。しかしいかなる官憲も、軍人も、私自身に向かってこの原稿が悪いとか。こういうことを書くなと命じ、また話してくれたこともない。すべてが雑誌記者もしくは新聞記者を通しての間接射撃であった」 (P213)

そして、自粛や忖度が闊歩する時代には、ジャーナリズムによる「批判」だけでなく「笑い」までもが縛られていく。

経済評論家の佐高信さん近著『絶望という抵抗』より。

「笑いは違いやズレから生まれる。一色に統制するような状況からは笑いは生まれない。異なることや違いが好きな人間でなければ、笑いはわからないのである」

「笑いの不毛地帯のこの国の首相は、笑われる人であっても笑いのわかる人ではない。笑いから最も遠い人であり、笑いを殺す人である」 (P200)

2015年は、どんな年になっていくのか…。

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