★「日本人」信仰

2014年12月24日 (水)

「なんかね、日本中が集団登校・下校の状態ですね。不安だから集団に帰属したい。一人になりたくない」

きのうのブログ(12月23日) では、「同調圧力の強い社会では、批評の機能が弱まっている」とする映画監督の是枝裕和さんの言葉を紹介した。

今日は、そんな私たちの社会における「同調圧力」についての言葉を並べてみたい。

コラムニストの小田嶋隆さん日経ビジネス・オンライン『ア・ピース・オブ・警句』(11月14日)より。

「私は、自分たちの国が、抜けられない同調が始まってしまった中学校の教室みたいになることを恐れている。考え過ぎだろうか」

作家の森達也さん著書『死刑のある国ニッポン』より。

「なんかね、日本中が集団登校・下校の状態ですね。不安だから集団に帰属したい。一人になりたくない。集団と違う動きをする奴は、KYとか自己責任などの理由をつけて排除したい。それが、オウム以降のこの国の現状です」 (P154)

作家の奥田英朗さん著書『田舎でロックンロール』より。

「わたしは基本的に学校が嫌いなのである。同じ服を着させられ、整列させられる、それだけのことに屈辱を覚え、反抗したくなる。自由を規制し、単一の価値観を植え付ける、そういった権力の支配を心から憎んでいる。だから、わたしとロックの相性のよさは必然と言えたのかもしれない。ロックがなかったら、わたしの十代はどうなっていたころやら」 (P224)

乙武洋匡さん自身のツイッター(7月7日)より。

「幼少期から『みんなが同じ』であることを求められる日本では、異なる環境に対する適応力が育ちにくいように思う」

内田樹さん著書『街場の共同体論』より。

「均質化がほんとうに進んでいる。子供の世界に強い同調圧力がかかっていて、かなり暴力的な仕方で均質化が行われている。少しでも個性的なものが出現してくると、その子がたちまちターゲットになる。抜きん出た人が出てくると、みんなで足を引っ張って、潰していく。全員を標準しなければならないという強い同調圧力が働いている」 (P64)

漫画家のヤマザキマリさん著書『男性論』より。

「『空気を読む』という、もはや慣用句になった最近の言葉がありますが、いまほど周囲の人間との同調を求められる時代があったでしょうか。逆に言えば、『不寛容』が進んでいるともいえそうです。『自分もハジけずに我慢しているのだから、おまえがハジけるのも許さないぞ』と」 (P123)

私たちは、まず学校という場所で子どもの頃から「同調圧力」にならされる。社会に出ても、様々な「同調圧力」に疑問を持たず、飼いならされたように生きていく。

でも本来、学校というのはそういう場ではないはず。

最後に茂木健一郎さんの言葉。著書『「個」育て論』より。

「僕、間違ったシステムがあったとき、羊のように従順に従うのではなく、文句を言う人をつくるのが教育だと思うんです。そうじゃないと物事は良くならない」 (P38)


2014年12月23日 (火)

「いや、みんなどこかでナンシーが見てると思えば、自分で自分にツッコミ入れて、不用意に何かを信じ込んだり、勝手な思い入れだけで突っ走ったりしなくなるんじゃないかと思ってさ」

昨日のブログ(12月22日)では、“日本人”という大きなサイズでの「同調圧力」について考えた。

その少し前のブログでは、今の社会では、権力側もメディア側も「批評」を避ける風潮があるという話題を取り上げた。(12月12日のブログ12月13日のブログ)


同調圧力が強まっていることと、批判が弱まっていることは、実は関係がある。


映画監督の是枝裕和さん朝日新聞(2月15日)より。


「同調圧力の強い日本では、自分の頭でものを考えるという訓練が積まれていないような気がするんですね。自分なりの解釈を加えることに対する不安がとても強いので、批評の機能が弱ってしまっている」


なるほど、である。

総選挙後の選挙特番でのインタビューでの安倍総理のコメントを思い出す。朝日新聞(12月17日)より。


「日本テレビで、村尾信尚キャスターから『アベノミクスでも実質賃金は減っている』などと問われると、色をなして反論した。村尾氏がさらに質問しようとすると、イヤホンを外して一方的に話し続けた。『私たちの政策によって雇用をつくり、仕事の場を守っている。村尾さんのように批判しているだけでは何も変わらない』」

安倍総理は、批判というものの大切さを分かっているのだろうか。そう思う。

ぜひ、改めて次のイビツァ・オシム氏の言葉を読み直してほしい。雑誌『フットボールサミット』(第6号)より。

「批判されることが全くなかったら、進歩などありえるはずがない。自分がいいのかどうかすら、知ることができない。新聞の批評を読んで、自分が優れているとようやく分かる」

「私に言わせれば、それが進歩のための唯一の道だが、日本では批判することもされることも嫌う。誰も批判されることを喜ばないのはどこでも同じだ。誰もが愛されながら生きたいと願っている。だがそれでも、進歩のために批判を受け入れている」

これは、憲法学者の木村草太さんの指摘とも重なる。文化放送『ゴールデンラジオ』(12月10日放送)より。

「批判ができない状況だと、政府がいい政策をやろうという動機が全くなくなってしまう。市民の支持を得られる政府を作るためには、いい政策をやるか、市民を圧迫するかのどちらかしかない。市民を圧迫すること、情報を流通させないという選択肢を、政府に認めてしまうと、もういい政策をやらなくてもいいということになる。そっちのほうが大変だから。どんどん権力は腐敗していく。これは絶対的な真理みたいなもの」

批判がないと、社会は前に進んでいかないのである。

民俗学者の大槻隆寛さんが、ナンシー関さんの批評について語っている次の言葉が、分かりやすい。著書『地獄で仏』より。

「いや、みんなどこかでナンシーが見てると思えば、自分で自分にツッコミ入れて、不用意に何かを信じ込んだり、勝手な思い入れだけで突っ走ったりしなくなるんじゃないかと思ってさ」

大切な役割である。

今日の朝日新聞(12月23日)には、「朝日新聞社慰安婦報道 第三者委員会報告書」が載っている。委員の北岡伸一氏は、次のように述べている。


「権力に対する監視は、メディアのもっとも重大な役割である。しかし権力は制約すればよいというものではない。権力の行使をがんじがらめにすれば、緊急事態における対応も不十分となる恐れがある。また政府をあまり批判すると、対立する他国を利して、国民が不利益を受けることもある。権力批判だけでは困るのである」

言いたいことは分からなくもない。でも、である。何かが引っかかる。

「あまり批判すると…」と言っても、ほどよい「批判」というのはどういうものなのだろうか。

私たちは、ナンシー関さんのような批判・批評について、改めて考えてみる必要がある。そんな気がする。

きっと、それが一番求められているのは権力側であることも確かかと。


アメリカで、マッカーシズムと戦ったジャーナリストのエドワード・R・マロー氏が、1958年に語った言葉を。アメリカ大使館のHPより。

「私たちの多くは新聞がなかったら自由を得ることは出来なかったと感じているのではないでしょうか。だからこそ、私たちは新聞自体に自由であってもらいたいのです」

もちろん、その自由にも「責任」が伴われることは言わずもがな。

安倍総理も自由民主党の総裁である。党名に「自由」を掲げている以上、次の指摘もぜひ頭に入れておいてほしい。

作家の高橋源一郎さん朝日新聞(6月26日) 『論壇時評』より。

「誰かの自由を犠牲にして、自分たちだけが自由になることはできない」

批判を押さえつけて、「日本人」という枠を押し付けてくる。これからの社会で、私たちができること。それは「同調圧力」に屈することなく、「いやな感じ」に対して、自由に批判し続けることだと思う。

2014年12月22日 (月)

「今や同調圧力は、職場や学校の小さな集団で『同じであれ』と要求するだけでなく、もっと巨大な単位で、『日本人であれ』と要求してくる」

前回のブログ(12月19日)では、「日本人」という括り方について考えた。その続き。

今回は、作家の星野智幸さんの次の指摘から。。著書『未来の記憶は蘭のなかで作られる』より。

「今や同調圧力は、職場や学校の小さな集団で『同じであれ』と要求するだけでなく、もっと巨大な単位で、『日本人であれ』と要求してくる。『愛国心』という名の同調圧力である。『日本人』を信仰するためには、個人であることを捨てなければならない」 (P16)

もはや、身の回りの小さな集団サイズの「同調圧力」だけでない。今の日本社会では、「日本人」という巨大なサイズで個を圧してくる。

小さい「同調圧力」なら、なんと避けるたり、ごまかしたりすることも可能かもしれない。でも、巨大な圧力となると…。こうした風潮にいやな感じを抱くのが普通だと思う。

内田樹さんの言葉。著書『ためらいの倫理学』より。

「上から抑えつけて来るあらゆる『力』(自分の意志を疎んじる力)に対して、どうしようもない『腹立ち』や『いやな感じ』を覚えるのは、『自分』を意識した生きる意志の、自分の思い通りに生きたいという<自由への願望>の心的な感情の現われであり、<意志>をもった人間なら誰でも感じる心の動きだろう」

一水会の鈴木邦男さんの次の言葉。著書『愛国者の憂鬱』より。

「日本にはそういう『個』の自由がなくて、何か『個』を消すことが当たり前」 (P204)

“日本人”という同調圧力が強い社会。そこでは、当然のように個々の自由さより、国家によるコントロールが優先される。きっと。

でも、である。

作家の高橋源一郎さんの言葉。朝日新聞(2012年8月30日)より。


「国家と国民は同じ声を持つ必要はないし、そんなギムもない。誰でも『国民』である前に『人間』なのだ。そして『人間』はみな違う考えを持っている。同じ考えを持つものしか『国民』になれない国は『ロボットの国』(ロボットに失礼だが)だけだ―というのが、ぼくにとっての『ふつう』の感覚だ」

宮台真司さんの言葉。ビデオニュース・ドットコム『マル激』(1月4日配信)より。

「一枚岩幻想はまずいと思う。『アメリカは』という主語で語るけど、その主語に意味はない。いろんな人がいる。沖縄も一枚岩で考えると全くダメ。炎上も、誰が炎上しているかが大事で、国民が炎上しているかのようなとらえ方に意味がない。一枚岩幻想がここまで強い時代は、かつてなかったと思う」 (48分ごろ)

“日本人”という同調圧力は、まさに一枚岩幻想。どう考えても、かの戦争の時代を連想させる。

例えば、コラムニストの小田嶋隆さんの次の指摘も、同じ問題について語っている。ラジオデイズ『ふたりでお茶を』(12月16日配信)より。

「『景気回復、この道しかない』というのは、ニュアンスとして『進め 一億 火の玉だ』と一緒なんですよ。国策標語なんです。『余計なこと言うな』、『お前ら我慢しろ』、一つの国の方針に向かって『君たち、文句言うのはやめたまえ』みたいなこと」 (17分ごろ)

まずは、“日本人”という括りに回収される前に、正直に自分の「意志」を表明することが大事なのではないか。そう思う。

2014年12月19日 (金)

「『日本人』信仰は、そんな瀬戸際の人たちに、安らぎをもたらしてくれるのである。安倍政権を支えているのも、安定を切望するこのメンタリティだろう」

一昨日(12月17日)の朝日新聞を読んでいて、劇作家の鴻上尚史さんの次の指摘が気になった。

「最近は『あなたは今のままでいい』『ありのままで価値がある』と自分を無条件に肯定してくれる本が売れています。それは『何もしなくても日本人だから最高の存在』と訴える超保守的な人々の考え方に通じます」

それで思い出したのが、コラムニストの小田嶋隆さんの指摘。ラジオデイズ『ふたりでお茶を』(10月24日配信)より。

「テレビ各局が全部やるようになった。日本が大好きだから外人が来るという話と、海外に行った日本人が尊敬されているよという話がセットで、それをみんなで見て『日本人っていいよね』という気持ちよくなる番組」 (33分ごろ)

確かに、最近はテレビ番組名や本屋に並ぶ書名に「日本人」という言葉をたくさん見かける。

日本人、という括りについて少し考えてみたい。


そういえば、きのうのブログ(12月18日)で取り上げた石原慎太郎氏の引退会見。そこでの中国についてのコメントでも「日本人」という言葉を使っていた。

「ある週刊誌のインタビューで『一番したいこと』を聞かれたので『シナと戦争して勝つこと』と。私は日本人として言った」

また、先の衆議院選挙に立候補した田母神俊雄氏公式ホームページを見てみると、次の言葉が目に入る。

「『日本人の、日本人による、日本人のための政治』を実現する」

ここでも“日本人”である。

確かに、僕も日本人。

でも日本人にも色んな人がいる。それなのに大枠で「日本人」を十把一絡げに括ってしまう風潮には、どうしても「いやな感じ」を持ってしまう。

鴻上尚史さんは次のようにも述べる。朝日新聞(12月17日)より。

「地道に考え、知恵を積み重ねれば『日本人でいるだけで素晴らしい』という論理は受け入れがたい」

でも、なぜ「日本人」という括りをしたがり、それに入りたがるのか。

作家の星野智幸さんは、著書『未来の記憶は蘭のなかで作られる』で次のように述べる。

「ナショナリズムは、それを信奉する人に一つのアイデンティティを与えてくれる。『日本人である』というアイデンティティである。このアイデンティティの素晴らしいところは、決して傷つかないこと。日本社会の中で生きている限り、日本人だという理由でパッシングを受けることはない」 (P15)

「『自分は日本人なんだ。日本人はまじめで粘り強く頭がよく、規律正しく団結力があって、サムライ的な腹をくくれる強さがあって、苦境を乗り越える力を持っている、そんな日本人の一員なのだ』。そう考えれば、自分が個人として抱いている劣等感も消え、強い存在になったかのように感じられる」 (P16)

「自分を捨ててでも『もう傷つきたくない』と思うほど、この社会の人たちはいっぱいいっぱいなのだと思う」 (P16)

「『日本人』信仰は、そんな瀬戸際の人たちに、安らぎをもたらしてくれるのである。安倍政権を支えているのも、安定を切望するこのメンタリティだろう」 (P17)

自分に余裕がない。もう傷つきたくない。だからこそ、強い存在になったかのように感じたい…。

これは、次の指摘とも重なる。漫画家の小林よしのりさん朝日新聞(12月18日)より。

「いまの国民は、強い人間が好きなんですよ。自分が強くなれないからね。負ける方を支持するのはすごく不快だから、快感が得られる方に投票したくなる」

“日本人”という言葉の多用と、安倍政権の圧勝はきっと同根にある。

藻谷浩介さんは次のように分析する。著書『里山資本主義』より。

「はじき出されないためには、不安・不満・不信を強調しあうことで自分も仲間だとアピールするしかない。つまり擬似共同体が、不安・不満・不信を癒す場ではなく、煽りあって高めあう場として機能してしまう」

“日本人”という枠で括ろうとする風潮が、排外主義が強く結びついてしまうことは容易に想像できる。

でも本来、今、日本の社会が向かうべきは、逆の方向であるはず。

それは“日本人”という枠に閉じこもってしまうのではなく、多様な社会に広がっていくこと。


緒方貞子さんの言葉を改めて。岩波書店編『これからどうする』より。(7月8日のブログなど)

「日本社会が自信を取り戻し、再び前進するためには、世界の多様な文化や価値観、政治や社会に目を開き、そこから多くを学びとるとともに、国内でも多様性を涵養してくことが必要です。そのことが日本に活力を与え、閉塞感を打開することにつながるのです。そこにこそ、これからの日本の進むべき道はあるのです」 (P6)



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