★「普通」って何!?

2014年8月28日 (木)

「普通イコール正しい、とはかぎりません」

前々回のブログ(8月23日)から、2回ほど「普通」にまつわる言葉を並べてみた。

その後、C・ダグラス・ラミスさん著書『普通の国になりましょう』を読んだ。その本の中から、「普通」についての言葉を、ずらっと並べてみる。

「歴史の移り変わりによって『普通』の意味もちがってきます。時代そのものが病的になると、その時代の『普通の人』も病気になります」 (P16)

「普通イコール正しい、とはかぎりません」 (P17)

「『普通』の意味はひとつではありません。どうしても『普通』になるぞ!と決心しても、どの普通を選ぶか、という問題になります」 (P17)

「まず、統計的にもっとも多い、つまり『多数派』とか『平均的』という意味でつかわれています」 (P22)

「辞書には出ていないけれど、アメリカのやりかたを『普通』だと思っている人も多いようです」 (P23)

「私たちは結構な状態を『普通』、病気のときを『普通でない』と呼ぶこともあります」 (P23)

「同じように、常識的な考えかたを『普通』と呼ぶこともあります」 (P24)

「『普通』という言葉には、『あるべき姿』という意味もあるようです」 (P33)

「普通の人は戦争をしません。戦争をする人は、なかなか普通になれません」 (P89)

読めば読むほど、「普通」って何だろう。そう思う。

前回のブログ(8月25日)では、ノーベル文学賞を受賞した詩人ヴィスワヴァ・シンボリスカさんの次の言葉を紹介した。

「一語一語の重みが語られる詩の言葉では、もはや平凡なもの、普通のものなど何もありません。どんな石だって、その上に浮かぶどんな雲だって。どんな昼であっても、その後に来るどんな夜であっても。そして、とりわけ、この世界の中に存在するということ、誰のものでもないその存在も。そのどれ一つを取っても、普通ではないのです」 (P40)

その後、日本の詩人、宮沢賢治さんの「雲」の表現についてのこんな指摘をみつけた。プチ革命 言葉の森を育てよう』(著・ドリアン助川)より。

「詩人の目にはどれだけの種類の雲が現れたのでしょう。おそらく宮沢賢治にとっては、目にする雲はすべて違う雲であって、それは一回性の命との出会いでもありました。すべてに差異があり、だからこそそれぞれの形容になったのです。一般の人はしかし、いわし雲と入道雲程度の区別はついたとしても、ここまではいかないでしょう。まさに、差異がわかることが言葉を生むことであるわけです」 (P36)

この2人の詩人の言葉を続けて読むと興味深い。

「普通の雲」なんてないのである。ひとつひとつ違う「雲」が空には漂っているのである。

詩人のドリアン助川さんは、次のように述べる。著書『プチ革命 言葉の森を育てよう』より。

「言語とはすなわち、区別がつくかどうか。差異に根差した表現なのです」 (P33)

 いつも最後は同じになってくる気がするが、結局は「言葉」が大事、ということなんだと思う

おそらく日本人の多くが、つい「普通」という言葉を使ってしまうのは、一つひとつの差異について見ないふりをしたり、その差異を言語化することが面倒くさかたりするからではないか。

僕が、「普通」という表現に違和感を持っていたのは、 

きっと、ここにも「多様性な価値観」を無意識に排除したいという今の社会のベクトルを感じとってしまったからかもしれない。

もちろん日常生活の中で「普通」というフレーズを便宜的に使うのは問題ない。ただ、政治家がこれだけ幅のある言葉を声高に言うのは、やはりどうかと思う。

それは政治家の言葉の問題なんだと思う。「普通の国」でもなく、「美しい国」でもなく、「新しい国」でもなく、どんな国に導きたいのか。少なくとも国のリーダーは、ちゃんと具体的な言葉にして国民に示してほしいと思う。 

 

 

2014年8月25日 (月)

「いま信じられている『ふつう』は必ずしも絶対的なものではなく、それとはまったく異なった『ふつう』があり得るということ」

おとといのブログ(8月23日)では、「普通」について考えてみた。

今回も
「普通って何だろう?」ってことについて考える言葉を並べてみたい。

障害学を教えていて、自身も視覚障害である倉本智明さん著書『だれか、ふつうを教えてくれ!』から。

「どちらかが『ふつう』でどちらかが『ふつうでない』といった見方がなくなったとき、はじめてバリアフリーが社会のあらゆる領域に浸透するのかもしれません」 (P64)

「いま信じられている『ふつう』は必ずしも絶対的なものではなく、それとはまったく異なった『ふつう』があり得るということ」 (P64)

ポーランドの女流詩人ヴィスワヴァ・シンボリスカさん。1996年のノーベル文学賞記念講演より。『「普通がいい」という病』(著・精神科医の泉谷閑示)から。

「一語一語の重みが語られる詩の言葉では、もはや平凡なもの、普通のものなど何もありません。どんな石だって、その上に浮かぶどんな雲だって。どんな昼であっても、その後に来るどんな夜であっても。そして、とりわけ、この世界の中に存在するということ、誰のものでもないその存在も。そのどれ一つを取っても、普通ではないのです」 (P40)

倉本さんとシンボリスカさんは、同じことを言っている。

こうした指摘を読んでいると、
「普通」なんてないのである。なのに「普通」を中心にして考えようしてしまう。これは「平均」を基準にした時の問題点にも通じている。(2013年5月22日と、5月28日のブログ)。

前回、日本の国内には「普通ではない国」という見方がある一方、国外からは「普通」に見られている、という指摘を紹介したが、この場合でも「普通であるとか」、「普通でない」とかの見方をしている限り、まわりの国との「障壁」(バリア)はなくならないのであろう。

見方によって、いろんな「普通」がある一方。時代、時代でも「普通」は変わる。

哲学者の鷲田清一さんの言葉。著書『パラレルな知性』より。

「ところが『普通列車』という言いまわしが普及しだしたころから、『普通』と『制限・限定・特別』との価値も反転しはじめた」 (P217)

かつては、「普通選挙」、普通教育」というように「普通」は有難いものだった。しかし、今では「普通列車」をはじめ、「普通乗用車」「普通預金」「普通の男」など、「普通」という言葉には「つまらないもの」というニュアンスが含まれてしまっている。

それなのに、日本には「普通の人になりたい」「普通の国になりたい」という言葉があふれている。

リリー・フランキーさん小説『東京タワー』に出てきた文言を思い出す。

「東京にいると『必要』なものだけしか持っていない者は、貧しい者になる。東京では『必要以上』のものを持って、初めて一般的な庶民であり、『必要過剰』な財を手にして初めて、豊かな者になる」 (P55)

このフレーズの「一般庶民」は、そのまま「普通」という言葉に置き換えられる。

みんな「普通になりたい」とは言いながらも、「必要以上」のものを手に入れようとしているのかもしれない。


こうやって、「普通」について考えているとよく分からなくなってくる。

きっと「“普通”を追い求める社会」は、「“本当の正しさ”があると信じられている社会」と同じもののような気がしてきた。(2013年5月15日のブログ

みうらじゅんさんのこんな言葉も載せておきたい。著書『人生エロエロ』から。

そして人間はさらに自分と他の生物の営みを区別するべく、『正常位』という驕り高ぶった言葉も生み出した。一体、何をもってそれを“正常”と呼ぶのだろうか?他の生物を敵に回してまでも言い張る根拠は何だ?」 (P54)

もしかしたら「本当の“普通”がある」、「本当の“正しい”ものがある」と考えること自体が、驕りなのかもしれない。

やはり、我々がすべきなのは、いろんな「普通」やいろんな「正しさ」をすり合わせていくプロセスを大切にすること。それしかないのではないか。(7月19日のブログ

最後に、こんな言葉を載せておきたい。新海誠さん小説『言の葉の庭』で、主人公である女性教師・雪野百香里が口にした言葉から。

「どうせ人間なんて、みんなどっかちょっとずつおかしいんだから」 (P58)


2014年8月23日 (土)

「特に日本人がそうなのかもしれませんが、『普通』になりたい人がとても多いのです」 

きのうのブログ(8月22日)では、サッカーの岡田武史さんの「普通」という言葉をきっかけにして話を転がしてみた。

今回は、その「普通」について。

このあいだ、ジブリの新しい映画『思い出のマーニー』を観た。主人公の女の子、杏奈は七夕祭りの短冊に、こんな言葉を書いていた。

「普通に暮らせますように」

ときどき思うことがある。「普通」って何だろう・・・。

精神科医の泉谷閑示さんは、著書『「普通がいい」という病』で次のように書いている。

「クライアントにはじめてお会いしたいときに『どう変わりたくてここにいらしたのですか?』と尋ねますと、『普通になりたいです』と答える人がかなりいます」

「特に日本人がそうなのかもしれませんが、『普通』になりたい人がとても多いのです」 (P40)

普通になりたい…。 


どうしても、かつて小沢一郎氏が提唱した「普通の国」という言葉を連想してしまう。今の安倍政権までずっと、この「普通の国」という呪文に縛られて政治が流れてきている気がする。


慶応大学教授の添谷芳秀さんは、編著『「普通の国」 日本』という本の中で、「普通の国」について次のように説明している。

「その認識に濃淡はあるものの、日本の『普通の国』化とは、日本が伝統的な意味での軍事力の役割に『目覚め』、究極的には憲法改正によって国際政治の舞台で軍事力を行使しようとするものであるとの解釈は広く行きわたっている」 (P4)

ということらしい。

同じく慶応大学教授の田所昌幸さんは、同著で次のように書く。

「戦後憲法は、日本がサンフランシスコ講和条約により公式に主権を回復した後も、日本をいわば保護観察状態に置くための制度装置であった。『普通ではない』日本とは、その産物なのである」 (P55)

「それでも1990年代以来、日本は少しずつ『普通』になってきたとは言えそうである。憲法第九条の制約の下で、明らかに日本の防衛政策は積極的になってきた」 (P57)

普通の国、普通でない国…。

憲法を改正し、積極的に防衛政策をすすめれば、本当に「普通の国」になれるのか。よく分からない。


同じ本の中で、シンガポール国立大学の研究員、ラム・ペン・アーさんは、次のように書いている。

「東南アジア諸国の目には、少なくとも冷戦後の日本の行動は十分『普通の国』として映っている」

「日本が『普通』であることは、国内よりも国外においてより容易に受容されているといえる」 (P255)

「普通」って何だろう…。

こんな指摘もある。

養老孟司さんは、JFN『学問のススメ』(7月6日放送)でこんなふうに話している。

「むしろ普通の人だから怖いんですよ。それをみんなが分かっていればいいと僕は思う。自分だって状況によっては何をするかわからない。神様がいる世界の国の良い点でも悪い点でもあるかもしれないけど、良いところっていうのは神様は見てますからね。日本ではそれがないんですよ。一人の神様は見張ってないからね(笑)そうすると状況が変わったときに普通の人はなにをするかわからないというのが、この社会の怖いところ」

やはり思う。
「普通」になること、「普通」を目指すことが、そんなにいいことなんだろうか、と。

そして、よく分からない「普通」というものを追い求め続けることは、実はとても怖いことなんではないか、と。

2014年8月22日 (金)

「日本人は空気に流される。残念ながらメディアはそれを抑える安全弁として機能していなかった」

サッカーの元日本代表監督の岡田武史さんが、西日本新聞(8月18日) でインタビューに答えている。その特集記事の題は『W杯と集団的自衛権』である。

「帰国後、妙な感覚に陥ることが多い。私が普通だと思っていたことは実はそうではなく、逆に私が間違っていたのか、と」

「日本はどうか。日本代表が負けても人々は渋谷でハイタッチをする。1次リーグで敗退した代表が成田空港に戻ると、千人を超えるサポーターが出迎え、歓声を上げてカメラを向ける。これは果たして普通のことなのだろうか」

この記事で岡田氏が言いたいのは、W杯の本大会が行われたブラジルから帰ってきてみると、世界における「普通」と、日本における「普通」、そして自分にとっての「普通」、それぞれのズレに戸惑う、ということなんだと思う。

その感覚は、サッカーについてだけではない。大会中に閣議決定された集団的自衛権の憲法解釈にも向けられる。

「安倍晋三政権が、集団的自衛権の行使を可能とする憲法解釈の変更を閣議決定したことを、ブラジルで知った。そんなことがあるわけはない、国会議員も国民もばかじゃない、まずは先送りだなと思っていたから心底、驚いた。帰国して、何事もなかったかのような空気に、また驚いた」

普通…。

自分が信じる「普通」のズレに対する違和感。それが次から次に発生してくる感じなのだろうか。


岡田さんは、W杯のブラジル大会前に、メディアが「今回のチームは勝てる」と散々持ち上げ、強豪に対しても「攻撃的」にいくことで盛り上がっていたことに違和感を持つ。

「メディアもサッカー界も何も疑わず『攻撃的サッカー』へ流れてしまう。日本人は空気に流される。残念ながらメディアはそれを抑える安全弁として機能していなかった」

そして、次のように考える。

「よく、コンピューターに人間が支配される映画がある。今まさに皆がえたいのしれない空気に支配され、思考停止に陥っているのではと恐怖感を持っている」


空気の支配。思考停止。これまで何度も聞いたフレーズである。

サッカーでも、政治でも同じ。そうやって同じことが繰り返される。


精神科医の名越康文さんは、MBSラジオ『辺境ラジオ』(7月30日放送)で次のように語っている。

「日本の戦争責任を考える前に、敗戦責任をきっちり考える。なぜあの戦争に負けたのかをきっちり検証しなければ、戦争責任までいかない。戦争が正しい、間違っているというのではなく、なぜあの戦争に負けたのかを検証していない、という指摘には全くもって納得した」

「同じことがある。なぜW杯の前にあれだけ盛り上がってしまったのか…。日本、本当にこのパターンが多い。実はW杯と戦争は対だと思う。いま反省しておいたら、傷が浅く日本の病巣を取り出すことができるのにやらない」

失敗や間違いを犯した場合、まずはそれを認め、反省する。そしてなぜ失敗したのかを検証し、今後に生かそうとする。

それが「普通」なのではないか。

ザッケローニのサッカーが正しかったのか、間違っていたのかは、おそらく分からない。どれだけ検証してみたところできっと正しい答えはでない。

でも、なぜザッケローニのサッカーは、ブラジル大会で勝てなかったのか。つまり、勝つことに失敗したのか。これについては、検証すればそれなりの答えが得られるはずである。


でも、きっとやらない。メディアもサッカー界も「負け」には目を向けず、「次」、すなわちアギーレで盛り上がる。(7月9日のブログ

戦争でも、政治でも、原発でも、そしてサッカーでも、同じパターンが繰り返される。

それを政治学者の白井聡さんは、「永続敗戦」と呼んだ。(7月15日のブログ

政治学者の島岳志さん著書『アジア主義』をさっき読み終えた。日本が今後、アジアの国々との連帯を模索していくなか、必要な姿勢として次のような言葉が記されていた。

「無理の上に築かれた表層的反省を繰り返すのではなく、歴史をじっくり見つめること」 (P454)

この指摘はメディアにも当てはまる。いや、メディアにこそ当てはめたい。

かの戦争だけでなく、原発、そしてサッカーなど。失敗に直面する前に散々煽ったメディアにこそ、検証によって歴史を見つめることが求められている。

 

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