「普通イコール正しい、とはかぎりません」
前々回のブログ(8月23日)から、2回ほど「普通」にまつわる言葉を並べてみた。
その後、C・ダグラス・ラミスさんの著書『普通の国になりましょう』を読んだ。その本の中から、「普通」についての言葉を、ずらっと並べてみる。
「歴史の移り変わりによって『普通』の意味もちがってきます。時代そのものが病的になると、その時代の『普通の人』も病気になります」 (P16)
「普通イコール正しい、とはかぎりません」 (P17)
「『普通』の意味はひとつではありません。どうしても『普通』になるぞ!と決心しても、どの普通を選ぶか、という問題になります」 (P17)
「まず、統計的にもっとも多い、つまり『多数派』とか『平均的』という意味でつかわれています」 (P22)
「辞書には出ていないけれど、アメリカのやりかたを『普通』だと思っている人も多いようです」 (P23)
「私たちは結構な状態を『普通』、病気のときを『普通でない』と呼ぶこともあります」 (P23)
「同じように、常識的な考えかたを『普通』と呼ぶこともあります」 (P24)
「『普通』という言葉には、『あるべき姿』という意味もあるようです」 (P33)
「普通の人は戦争をしません。戦争をする人は、なかなか普通になれません」 (P89)
読めば読むほど、「普通」って何だろう。そう思う。
前回のブログ(8月25日)では、ノーベル文学賞を受賞した詩人ヴィスワヴァ・シンボリスカさんの次の言葉を紹介した。
「一語一語の重みが語られる詩の言葉では、もはや平凡なもの、普通のものなど何もありません。どんな石だって、その上に浮かぶどんな雲だって。どんな昼であっても、その後に来るどんな夜であっても。そして、とりわけ、この世界の中に存在するということ、誰のものでもないその存在も。そのどれ一つを取っても、普通ではないのです」 (P40)
その後、日本の詩人、宮沢賢治さんの「雲」の表現についてのこんな指摘をみつけた。『プチ革命
言葉の森を育てよう』(著・ドリアン助川)より。
「詩人の目にはどれだけの種類の雲が現れたのでしょう。おそらく宮沢賢治にとっては、目にする雲はすべて違う雲であって、それは一回性の命との出会いでもありました。すべてに差異があり、だからこそそれぞれの形容になったのです。一般の人はしかし、いわし雲と入道雲程度の区別はついたとしても、ここまではいかないでしょう。まさに、差異がわかることが言葉を生むことであるわけです」 (P36)
この2人の詩人の言葉を続けて読むと興味深い。
「普通の雲」なんてないのである。ひとつひとつ違う「雲」が空には漂っているのである。
詩人のドリアン助川さんは、次のように述べる。著書『プチ革命
言葉の森を育てよう』より。
「言語とはすなわち、区別がつくかどうか。差異に根差した表現なのです」 (P33)
いつも最後は同じになってくる気がするが、結局は「言葉」が大事、ということなんだと思う。
おそらく日本人の多くが、つい「普通」という言葉を使ってしまうのは、一つひとつの差異について見ないふりをしたり、その差異を言語化することが面倒くさかたりするからではないか。
僕が、「普通」という表現に違和感を持っていたのは、
きっと、ここにも「多様性な価値観」を無意識に排除したいという今の社会のベクトルを感じとってしまったからかもしれない。
もちろん日常生活の中で「普通」というフレーズを便宜的に使うのは問題ない。ただ、政治家がこれだけ幅のある言葉を声高に言うのは、やはりどうかと思う。
それは政治家の言葉の問題なんだと思う。「普通の国」でもなく、「美しい国」でもなく、「新しい国」でもなく、どんな国に導きたいのか。少なくとも国のリーダーは、ちゃんと具体的な言葉にして国民に示してほしいと思う。