「世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ」
前回のブログ(7月3日)に続いて、今回もW杯について。
以前のブログ(6月11日)にも書いたけど、
サッカーというものには、社会を変えたりする力や社会に風穴を開ける力がある。
イビチャ・オシム氏は、雑誌『Number』(7月9日号)で、ブラジル大会での日本代表について語っている。その中で、サッカーと社会のつながりについて次のように触れている。
「サッカーで爆発するのは国民全体が爆発するのと同じだ。たんなるスポーツに限らない。政治や経済など、他の分野に与える影響も小さくなく、国全体にその影響は及ぶ」
「サッカーの成績が良ければ、日本全体が良くなっていく。国民が明るい希望を抱き、生活が楽しくなっていく。そんな風になれる機会を、あなた方は逃してしまった」 (P49)
こうした「サッカーを通じて、社会を良い方向に変えてやる」という意識が、代表選手やチームにはもちろん、サポーター、メディアにあれば、もう少し世界が注目するサッカーを日本代表がピッチで展開できたのではないか。そう思ったりする。
例えば、
グループリーグで敗退してしまったが、ボスニア・ヘルツェゴビナ。この国は、今回、W杯初出場を決め、そして初勝利を手にしている。このボスニアのエースであるエディン・ジェコ選手の言葉は印象深い。NHKスペシャル『民族共存へのキックオフ~“オシムの国”のW杯~』(6月22日放送)より。
「僕たちは民族や名前なんて関係ないことをみんなに示したんだ。それはみんなが一つになれるという証しだ。離れ離れではなく民族を超えて一つになることが僕たちを成功に導くんだ」
かたや日本代表。
サッカーと社会との関係で、個人的に残念だったがある。それは、名古屋グランパスの田中マルクス闘莉王選手の選考をめぐること。
僕を含めて多くの人が代表入りを望んだと思われる闘莉王選手。彼はなぜ選ばれなかったのか。
その闘莉王選手のインタビューが、雑誌『Number』(6月25日号)に載っていて興味深かった。
「よく『ビックマウス』みたいなことを言われたからね。そうやって変な奴に見られがちなのは、今に始まったことじゃない」
「例えば、自分はDFとはいえ、守ってばかりじゃなくて結局的に攻めに出る。それに対して『DFなのに自分勝手だな』と言われることが結構ある」
「自分がルールからはみ出るような選手に見られがちなことは、僕自身が一番よく理解している。でも、僕の性格を知っている人間は、そんなことなんて言わない。僕のことをちゃんと知らないでいろいろ言うのは、価値がないことなんだよ」
「俺たちはプロだよ。意見を言うのは当たり前。それがおかしいことと捉えられるのなら、日本のサッカーもまだ成長しないといけないよ。自分の考えを主張することは、別に監督に反対しているわけじゃない」
「別に俺は監督に反抗なんてしていないんだよ。チームにプラスを生み出すために、自分の意見を言っているだけだから」
「全部イメージの世界で、俺は語られていた。雑誌やテレビを見てもね」
この闘莉王選手の話に出てくるフレーズ。
「変な奴」、「自分勝手」、「ルールからはみ出る」、「意見を言う」、「自分の考えを主張する」…。
これらのフレーズを一言にまとめるとと、きっと「面倒くさい奴」。彼は、そういうイメージを持たれていることを正直に告白している。
闘莉王選手を代表選考から外した本当の理由は、ザッケローニ監督が語らないと分からない。(ぜひ語ってほしいし、総括として語るべきだと思う)。でも、やはり「面倒くさい奴」は排除しようということだったのではないか。個人的には、そう思う。
上記の闘莉王選手が口にしたフレーズは、
まさに、日本的な「ムラ社会」や「システム・組織」が最も嫌う要素であるからである。
また、さらに問題だと思うのは、彼にチャンスを与え、自分の「目の前」で確認しようとしなったこと。
前回の南アフリカ大会で監督をつとめた岡田武史氏は、次のように語っている。WOWOW『田中マルクス闘莉王 2つの祖国』より。
「最初、代表に入れるかどうかで迷った。それは外から見ていると、ものすごくわがままに見えた。でも1回呼んでみようと。呼んでみて話したりしてみると、決して彼はわがままじゃないことが分かった」
実際は「わがまま」ではなかった…。
イメージだけで「面倒くさい奴」と決めつけ、ハナから排除し、内輪集団の予定調和の関係を存続させる。まさに日本がお得意の「ムラ社会」の論理が垣間見えて、「いやな感じ」がするのである。
政治学者の白井聡さんの指摘が重なる。雑誌『SIGHT』(2014年夏号)より。
「結局もう、あらゆる政治経済、学問などの既得権益を持つエリートたちの、自分たちの世界を壊すこと、壊されること、これに対する恐怖心が強いんでしょうね」 (P104)
「我々の世界を壊すようなことを考える奴はいてはならないんだ、という形で排除してしまう。それでは組織として劣化していくのは当然です。そういう意味での劣化はもう、どの領域でもどんどん進行してきたんじゃないですか」 (P105)
前回のブログ(7月3日)のブログで書いた久米宏さんの指摘を思い出してほしい。
「ケタ外れの人だとか、規格外の人とか、悪魔みたいとか…、そういうのがいないと、本当に強いチームができない。そのチームには、ケタ違いの選手が1人か2人くらいいる。これどうしようもないという選手が…」
闘莉王選手を、もしイメージだけで「面倒くさい奴」と排除していたなら、そんなチームには、きっと「桁外れの人」とか「規格外の人」とかの選手が、日本代表として選ばれるはずはないのである。
ムラ社会、コンプライアンス、効率主義…。そうした「面倒くさいこと」を排除する今の日本の風潮・体質に風穴を開けるためにも、まずは日本サッカーが「面倒くさい奴」と共存して、そして結果を出してほしかった。
オシム氏がいうように、サッカーには、そうした社会に風穴を開ける力があると思うし、新しい価値観を社会に示すことができると思う。
最後に。
サッカーではないが、アニメ監督の宮崎駿さんが、映画作りについて語ったコメントを載せておきたい。NHK『プロフェッショナル』(2013年11月13日)より。
「面倒くさいっていう自分の気持ちとの戦いなんだよ。何が面倒くさいって究極に面倒くさいよね。『面倒くさかったらやめれば?』『うるせえな』ってことになる。世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ。面倒くさくないとこで生きていると面倒くさいのはうらやましいなと思うんです」
クリエイティブ、イノベーションなど、社会に新しい価値観を示すものは、「面倒くさいこと」の積み重ねの末に生まれるものではないか。
今の日本社会のように、「面倒くさいこと」を排除、遠ざけることを続けている限り、きっと社会は良い方向に変わることはできない。そして、「大事なこと」を失っていく。
W杯と闘莉王選手の選考を通して考えたことをまとめてみた。